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noteで蘇る、90年代の日々

 noteは今迄のSNSじゃない。でも決して進化したんじゃない。 

 あえて言えば、ホームページの時代に戻ったんだ、と思う。

 noteは「ダラダラとタイムラインを追えない」と言った人がいた。別に間違ってはいない、でも何かが違う、と思った。

 この人は「noteはtwitter感覚で使えない(からダメ)」と言っているのだろう。誰もが適当につぶやき、時に有益な情報が入り、でも同じぐらいのジャンクも流れてくる。

 見てもいないテレビをつけっぱ なしにするように、自分は立ち止まったままでも勝手に情報が入る、そういうSNSを求めていたのだろう。 

 それも個人の趣味、否定はしない。だがnoteがtwitterと同じものならtwitterを使えば良く、そこに存在価値は生まれない。

 1990年代後半、私はホームページ――今で言う WEBサイト作りに熱中していた。

 自分の好きなテー マ、得意なテーマをまとめてサーバにアップする。 PCに入れた専用のビルダーで造るもよし、コツコ ツHTMLタグを手打ちするもよし。

 テンプレート画像を貼り付けただけの、イラ ストもなければFLASHもない稚拙なサイトが出来上がった時の興奮を、今も忘れることが出来ない。

 何せインターネットは「世界へと繋がる」のだ。 自分の文章が、自分の趣味が世界に発信されているのだ。

 例えトップページに「Sorry Japanese only」 という謎の文章で言い訳されていようが、自分が世界デビューできるという感覚に心が震えたものだ。

 noteを初めて使った時の気持ちは、この時に似ている。例え稚拙な文章であれ、自らの文章を「作品として発表する」気持ちが蘇ってきたのだから。

 ネットが当然の存在となった現代、我々は「世界に向けて」などとカッコつけることはない。自分のことなど、友人だけが見てくれればいい。

 ネットが世界を狭くしたと言うけれど、本当に縮小していたのはネット世界そのものなのかもしれない。

 だが世界はもっと広い。noteも所詮は日本国内限定のものかもしれないが、それでも仲間内だけの狭隘なコミュニケーション感覚では手に余る、そんな場所だと思う。

 誰かの情報を待つのではなく、自らが情報を送り出す主体となる時代が再び蘇ろうとしている。1990年代後半の熱かったネット世界が、noteによって再び戻ってきた、そんな気がする。

※スマホから作成しました。



「競馬最強の法則」にて血統理論記事を短期連載しておりました。血統の世界は日々世代を変えてゆくものだけに、常に新しい視点で旧来のやり方にとらわれない発想をお伝えしたいと思います。