2020年、本と弱者であることとエンパワメントということ。
みなさんから、12月に販売したしめ飾りキット完成のご報告&お写真が続々届いてうれしい年末です(ただ返信がほぼできておらずすいません……)。わたしも自作のしめ飾りを玄関に。今年は帰省できないので、と購入下さった方もいました。なんだか年の瀬を一緒に過ごせているような気持ちでうれしいです。
今年は"弱"について考えることが多い年だった。
わたしもシングルマザーなりたてで大変だったとき、誰かに相談しようとしても「みんな大変だよね」と回収されることが多くて途中から一切の相談をやめました。選択的夫婦別姓の問題しかり、家庭や夫婦、女性の役割、子どもについてはなんとか社会で締め付けようと動くのに、何か困ったことが起きればすべて自己責任に自業自得、責任も持てないのに産むのが悪い、というのはただのいじわる。弱者への不寛容さが、いわゆる強者の生きにくさすら生み出してるんじゃないかと心配になる。
今はもう、マヤルカを応援して下さる方やお客さんのおかげで困ることもあまりないけれど、わたしがそういう"強さ"で乗り切ってしまうことは、わたしだけのためにしかならないなという葛藤もあります。困っていることって、他人にはどうやっても伝わらないことが多いし、渦中にいる人は伝える術がないと思う。だからこそ社会があるはずなんだけど、残念ながら"みんな大変"ていう大雑把な想像力では助けられない。今年はフェミニズムへのバックラッシュとしか言いようがないような不寛容な攻撃もたくさん目にしたけれど、はっきり言ってその攻撃はどれも、「まだそのレベル?」てことが多くて、議論できるところまで至っておらず、わたしは優しくないので反論する気も起こらない。こちらはなんとか強者の文脈で理解してもらえるような主張ができるよう勉強して弱者の地位向上を目指してる、でも既得権益を守ろうとする側は、意図的に無知を続けて「分からない」「考えすぎ」「説明しろ」と突っぱねるのみ。弱者の主張が分からないのは、あなたがすでに権利を持っている証拠なんです。
弱者を助けられない社会の存在意義ってなんだろう。たぶん、その社会のおかげで何らかの利を得ている人がいるのだろう。利とまではいかなくても、それ自体が存在意義である人がいるのかも。
わたしは古書店として生計を立てているけれど、実は少しだけ新刊も売っている。なので少しだけ新刊本の世界も垣間見る場面もあるのだけれど、店主がどうであれモノがなければ始まらない古書の世界と違って、流通システムが作られ(整い、とは言いきれないけれど)一見誰にでも開かれているかのような新刊の世界はまだまだ女性には厳しい業界だということがこのコロナ禍で顕著になった気がしている。むしろオンライン化が進むにつれて、お客さんも関係者も気楽で楽しく何かを得られる"部活感"を望んでいる人が多い気がしていて、数の少ない女性の店主や店長は特別な何かがある場合をのぞいてはなかなか同じ土俵では勝負しにくいし、SNSでは発言力のある男性のジャッジが印象を左右することも多い。情報の取捨に長けた若いひとを見ていると、少し前の世代のような、「カルチャーは博識のお兄さんから教えを請けて、受け継いでなんぼ」みたいな感覚はなくなっているように思えるので、そこが希望ではあるけれど。
仕事柄、古書の買取りでいろんな家庭と関わることが多い。なかには、わたしが女性であることを知って(店は来たことがなくても)勇気を出して買取りを頼んでくれる方も多い。誰にも言わずにずっと集めてきたコレクションへの愛をこっそり話してもらうときはすごくうれしくなるけれど、ときどきあるのが今、ほぼ値段をつけることができない箱入りの文学全集揃い(ほぼ未読)を残して他すべて処分してからのご依頼。ああ、それは残念ですね、と話してお断りすることになるのですが、わたしはそこに、家庭内の男女の不均衡を感じる。
また、ある一定の年齢より上のご夫婦が店に来られることも多いのでよく見かけるけれど、妻が本をゆっくり探す様子を夫がぴたりと背後にくっついて監視している場面をよく見る。大型書店と違って狭い店内なので見失うことは絶対にないし、もしかしたら女性の店主がセレクトした古書は見たくないのかもしれないけれど、なんか他にやることあるだろう。大抵妻はそそくさと、「気になる本がたくさんあったけど……またゆっくり来ますね」と言って帰ってしまう。コロナ禍では不要な密も避けたいし、来年は店の外に「夫の椅子」と書いた紙でも貼った椅子を置いておこうかな。もちろん当店のお客さんは、そうでない男性のほうが九割ですよ。
だけど趣味的な文化は、恐らく嗜好品であるがゆえに獲得という過程が必要なひとつの権利なのだ。わたしが細々と古書業界に身をおくというそれだけのことで守れる権利もたくさんあるだろうなという思いはいつもある。ただそれには、しっかりわたしが生きていけるだけの稼ぎを叩き出さなければならないという厳しさが大前提なのですが。
すべての人の均衡を目指した社会では、大雑把な想像力では矛盾すると感じるのかもしれないけれど、弱者に多く与えたり、マジョリティに括ることのできない多様さを受け入れ、認めたり尊重できるシステムを作る必要がある。
自由でまともな権利を求める声と、差別や区別を主張する自由の違いが分からない人、みんな懇切丁寧に説明しているけれど、結局は勉強してくださいということに尽きると思う。
大丈夫、他人の権利を認めても、あなたの権利は奪われない。あなたの狭量さと同等の狭量さで世界はできていない。
それにその足元、本当にそんなに強固か見直してみたほうがいいんじゃない?たぶん、築き上げてきたものは案外もろいですよ。
政治については、よくないことだけれどもうニュースを見ることすらしんどくなるような一年だった。慢性的な支配や諦めは、反論の意志を奪う。
以前からそうであったかもしれなくて、ただある程度の受け皿があったから気がつかなかっただけなのかもしれないけれど、今や言葉それ自体も自分で獲得しなければならない権利のひとつ。壊滅的に言葉の意味を蹂躙された社会では、普通に生活していたのでは、多くを語り得る言葉に触れることすらできない。例えば日常生活でも、Google検索で必要な情報にたどり着ける確率って体感的には加速度的に下がっている。この精度の悪さを目の当たりにするたびに、便利さを奪うほどまでに近視眼的な資本主義の限界を感じずにはいられない。必要な情報にアクセスできるようなポイントをどれだけ持てるかが個人に委ねられた社会では、草の根レベルの活動が大きな力を持てるだろう。もはやそれは、社会が機能していない、荒廃、ともいえるかもしれない。
何が言いたいのかというと、わたしにできることなんてあるんだろうか。個の力なんて意味がない、という段階はたぶんもう過ぎている。わたしの力が隣の誰かを動かして、またその隣の誰かを動かしていく。そう、まさにエンパワメントがちゃんと意味を持てる時代が来ている。
コロナはまだまだ落ち着かなそうですが、そんなわけで諦めずに2021年もやっていきましょう。
本の力を信じてるなんて、過剰に神格化したことは言いません。でも、楽しみはもちろん、ほんとにまだまだ本が担わなきゃならない役割があると思わされた2020年の終わりに、半年ぶりのnote更新でした。
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