沼津兵学校 1939

兵学校というから昭和の時代のものかと思っていたらこれが幕末の話。偶然だがこのチャンネルCinema Japan Retrospectiveで幕末ものが続いた。「狼煙火が上海に揚る」(22)、「嵐に咲く花」(24)。続けてみてもらえれば理解しやすいのではないかと思ったが、こういう地味な映画はよほどの日本通のおたくでなければ手が出ないかもしれない。

沼津兵学校の成り立ちを見るとこれが実に混乱した時期にあたっているのがわかる。新政府軍の官軍と、賊軍とされてしまった旧政府軍。この学校の設立時にはまだ榎本武揚ひきいる旧政府軍が函館で戦っているのである。徳川の禄を食んでいたものにとっては体がひきさかれるような思いであったということは想像に難くない。

いっぽう、「狼煙火が上海に揚る」の中で、上海に行って清国の現実を見てしまった高杉晋作らにとっては、いまは市民戦争などしている場合ではない、とこれまた切実な思いであったろう。

そういう大局的見地とはべつに人々には日々の生活がある。徳川武士もいまとなれば800万石から70万石となった徳川家に頼るわけにはいかない。徳川家や新政府のほうも禄を失った武士たちをまったく見捨てるというわけにもいかず、こういう移民プログラムを作ったのだろうが、実際のところどれだけ役に立ったものやら。

それでも兵学校に入学できたものは幸運であった。新政府としても工兵は絶対的に必要であったろうし、士族の不満を(多少なりとも)抑える意味からもこの兵学校の設立は合理的な選択だった。

映画の中では様々な人々が様々な軋轢の中で新しい自分の居場所を模索していく姿を写している。武士の中でも徳川武士はとくに気位が高かったであろうから御一新はさぞつらかったろう。
彼らにとって蒲鉾屋の倅が学問を志すことなど思いもよらなかったに違いない。
「なんだ、町人なら町人らしくしろ。薩長の威をかさに着て生意気な」とつい怒鳴ってしまう侍がいても不思議ではない。
この時代の映画には福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の理念が通底している。諭吉はこれを侍に向けて発していたのかもしれない。ただ、人によってはその変化を軽々と乗り越える侍もいて、それもまた一生。半七捕り物長で有名だった岡本綺堂など幕府に仕えた元御家人だというし。

沼津兵学校は今井正監督が26歳のころの作品。戦後監督は社会派監督として多くの作品を残している。しかし、白状するが、私は子供のころこの監督の映画を次々と(学校の授業でも見た記憶がある)見せられて、映画に対する興味を失ってしまった。「映画というのはしんどいもの」という刷り込みが出来上がってしまったのだ。年をとっていまごろ映画に開眼しているが、つくづく思うのはイデオロギーにまみれない「娯楽」というのがいかに精神衛生にとって大事かということだ。

作品というのは作り手が意図しないものをも表してしまう。軍国主義ということで戦後封印されてきたこれらの映画を見るにつれ思わぬところで意外な発見に驚かされる。
ここで、揚げ足をとるつもりはないが、この映画の中で「新聞」というものができたそうだと披露する場面がある。そこで持ってきた横浜新報というのが「めし」となっている。いったいこれはなんですか。 「えーっと、ここで新聞がいる。なんでもいい、そこらの紙で」と出前のメニューで間に合わせたんですかね。

新聞記事は「長州藩の何某がいらざる発砲をして云々」と函館戦争を記述していることになっているが、旧政府軍に対して同情的な口調になっているのにも注目。


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