嵐に咲く花 1940

これは1935年改造社から出版された明治建設「エル・ドラドおけい」の物語を土台にした映画である。原作者は木村毅(きむら き)1894-1979。

「沼津兵学校」は徳川武士たちの移住がテーマとなっているが、こちらは徳川家の武士以上に行き場のなくなった会津の人々。
物語は会津二本松の郷士、増水家の数奇な運命をたどる。長男正一郎は京都、大阪をまわっているうちに時代の変化をとらえていくのだが、会津藩はかたくなに徳川への忠誠に燃えている。このままで賊軍になってしまうと正一郎は村に戻り一族を説得しようと試みるが失敗に終わる。

一方で、福沢諭吉の慶応塾で学を志していた蜆平九郎は、戦が始まると聞くとどうしても侍としての血が騒ぐ。けっきょく抜刀は許さぬという師の掟に背き、会津征伐に赴く官軍に加わろうと東北に向かうが、途中で思いがけなく正一郎と出会い、心を通わせる。
だが、戦いはあっけなく終わった。正一郎は戦場で少年隊(白虎隊)に加わった弟の正二郎が官軍に襲われているのを見てついかばおうとしてしまう。正二郎は死に、正一郎は裏切り者と呼ばれてしまう。正一郎は自責の念から官軍の大砲の前に身を投げ出し一斉射撃を浴びる。
「どちらの側であっても国を思う気持ちに変わりはなかった。それだけは信じてほしい」と最後の言葉を残す正一郎。その死をみとったのは蜆平九郎であった。蜆はおけいが正一郎に渡した印籠を形見にもらう。

その蜆も目を負傷し、官軍の息のかかった村の温泉場で手当を受ける。その蜆の世話をしたのは、皮肉にも落城後その温泉場に身をよせていたおけいであった。目の見えない蜆は献身的に世話をしてくれるおけいに惹かれていったが、おけいは蜆から聞く官軍の情報を若松の会津方に伝えていた。だが、いつしかおけいはそのことで苦しむようになっていた。

蜆の目の包帯がとれる日、おけいは爺やと女中のおしげとともに宿を去っていった。残された手紙を見てすぐに後を追う蜆。だが、山道は二つに分かれていた。迷ったあげく一方の道をとる蜆。だが彼がおけいに巡り合うことはなかった。おけいの顔を知らないまま彼は大政奉還を迎え、自暴自棄となっていった。時代は激変し、明治となる。

脚本 武井諒
脚色 山崎謙太
演出 萩原遼

配役
大河内伝次郎(福沢諭吉)
黒川弥太郎(蜆平九郎)
山田五十鈴(増水の妹 おけい)
北沢彪(増水正一郎)
水町庸子(スネルの夫人 富枝)
三田國夫(鮫島)
清川壮司(太吉)
神田千鶴子(おしげ)
鳥羽陽之助(博打打ち源五郎)
志賀暁子(女給お秋)
汐見 洋 (スネル)

<スクリプト>

慶応4年 春
会津 二本松

水車場
上に向かって娘が声をかける
「太吉さん、」
「ああ」
「お嬢さん、お見えになったかね」
「ああ、おいでになると思うけど。何か用かい」
「お客さまだが」
太吉が降りてくる。
「あの、お客さまって? 若旦那の居所でも知れたか」
「いいや。若松から富枝さまがお見えになったんだよ」
「富枝さまが?」
「ほら、お嬢様のお従妹さまでスネルとかスガルとか、ほら毛唐人の、」
「ああ、殿様のお声がかりでその毛唐人の奥様になりなすったというお方かい?」
「お嬢さまどこに行かれたかねえ」
「そのうちここをお通りになるだよ。それよりおしげさん、ちょっと話していかんかい?まあ、掛けろや」
「うーん、だけど、」

「ご苦労さまです」
道を通るおけいに村人が挨拶する。
「はい、ご苦労さま」
その声を聞いておしげが上がってくる。
「お嬢さま、富枝さまがおみえになりました」
「まあ、富枝さんが? それじゃ爺や、あとで用水路を回っておいて」
おけいはお供していた爺やにいいつけて家に戻ろうとする。
「かしこまりました」
下のほうで太吉がおけいにお辞儀する。それを見たおけいは、
「おしげ、太吉の仕事を手伝っておやり」
「でもお嬢様、お客さまが」
「いいんだよ。うちにはたくさん手があるんだから、手伝っておやり」
それは若い二人におしゃべりの時間を与えてやろうとするおけいの思いやりであった。
爺やはにやりとして、
「しげ坊、嬉しかろう」
「いやだ、爺やさんたら」
「なにがいやだ。お嬢さんは似合いの二人だから末は添わしてやるとおっしゃったぞ」
「ほんとか?」
「うん」
太吉も上に上がってきてお嬢様の後ろ姿に頭を下げる。
「ありがてえお嬢様だなあ。あのお嬢様のおかげで増水さまの小作は幸せ者だって近在でも評判だそうだ」
爺やもうなづく。
「大したお嬢様だよ。大旦那さまはあのとおり弱ってらっしゃるし、若旦那様は家を出たっきり行方がわからないし、正二郎坊さまはまだお小さいだろう。女手ひとつで何もかも切り回していらっしゃる。今はただの郷士だが、増水家は昔は武士の家柄だ。血筋が違うだ」

おけいの父の増永家の当主は病を得て床にいる。富枝は彼の病床のかたわらで話し相手をしている。
「するとスネル殿はその上海とやらに武器の調達に発たれたたのか」
「はい。殿さまのご用命を受けまして」
「うむ、鉄砲、大砲が到着いたせば薩長どもの奴ばらこの会津には一歩も入れんというわけだな」
「はい、この奥州は会津藩だけで十分守れると主人は申しておりました」
「スネル殿の洋式調練がお役に立つときがきたな」
「はい」
そこへ、
「富枝さま、ようこそ」
おけいが部屋に入ってくる。
「おけいさま、ご無沙汰申し上げております」
「わたくしこそ」
「ただいま叔父様からお話を伺いましたの。おけいさま、大変なお働きだそうで」
「まあ、いいえ。女のことで何もできませんの。せめて兄がいてくれましたら」
「正一郎様のお行方はまだ?」
「はあ、あれ以来なんの音沙汰も」
父は憮然とした面持ちで、
「それも時世というものじゃ。二本松の藩は従順すべきか、それとも君側の奸を打つか。論議がやかましいそうじゃ。若い正一郎がじっとしておられず家を飛び出した気持ちはわかるのじゃが、」
父は溜息とともに
「年をとると寂しいものでな」

品川見張り所にて:
調べを受けるひとりの侍、それが正一郎であった。
「いずれの藩で、名前は?」
「会津二本松の郷士、増水庄左エ門の倅、正一郎。急用あって国へ立ち戻る途中です」

慶応義塾:
無人の教室で男がひとり刀を磨いている。
「だれだ?」
「うん、蜆、俺だ、鮫島だ。なんだ刀だな。俺があれほど言ったのに君はやはり行くくだな」
「許してくれ。戦争が始まり次第、飛び出すつもりだ。上野の彰義隊に駆け込むか、それとも会津を攻めている土佐の軍に加わるために白川まで行く決心だ」
「そうか」
「君にもいろいろお世話になった。もし帰ってこなかったらこの王政復古という大事業の捨て石になったと思ってくれ。頼む、今夜のことは誰にも言わんでくれ」
「馬鹿!」
そこへ一喝、福沢諭吉が現れる。
「あ、先生」
「この時局をなんと心得る? 私の部屋に戻れ」
「は、はい」
二人は諭吉の部屋に入り頭を下げる。
「塾の規則にいかなる事情があろうとも抜刀はならん、もち扱ってはならんとある。君は届を出したのか」
「はい、いえ。夜分でございましたので」
「夜分でだめだったら昼間届けたらいいじゃないか」
蜆は返事ができずうつむいている。
「とにかく規則違反だから刀は預かっておく」
「先生、刀だけは、」
「刀だけは、なんだ? 君は武士の魂だとでもいうのか」
「は、はい」
「君は英語にかけては私も一目おいているぐらい秀才だが、どうも時代の認識を欠いているようだ。いままでの日本は武士は最高であった。これからの日本は武士だけではいかんのだ。政治も軍事も商売も、新しい学問を土台にして成長していかなければ欧米の先進国に互していけないのだ。その指導者ともなる人物を養成するのが塾の精神なのだ。君はその精神をはき違えている」
「わかっております」
「わかっている?わかっているのならなぜ規則に反するようなことをするのだ。これから己の天分を磨いて国家の礎石となるべき人物になるのだ。今は大事な時だ」
蜆は無言で頭を下げるのみ。

教室にて:
ひとりの学生がかけこんでくる。
「おい、始まったぞ!いよいよ戦争が始まったぞ!」
「おう」
一同どよめく。
「上野の彰義隊に官軍の総攻撃だ」
一同立ち上がるが、
「待て、まあ聞け。当指揮官は大村益次郎。夕べのうちに上野の山を囲んで今日の夜明け、六ケ所から攻め始めた」

廊下にて蜆と鮫島。
「どうしても行くのか」
「止めてくれるな、鮫島。わしは武士の家に産まれたのだ。武士とは武をもって立つ人間だ。それがこの大切なときに一太刀もふれぬかと思うと勉強する気も起こらんのだ。許してくれ」
「じゃあ、早く行け」
「ありがとう!」

教室にて諭吉が講義している:
「いよいよ戦争が始まったらしい。徳川の学校はすべて閉鎖され、世間も学校を顧みられなくなっている。このときに及んで書を呼んでいるのはこの慶応義塾ただひとつ。心根の定まらんものは去るがよい。私は、この戦争がたとえ一年続くとも、また塾が戦火のために焼け落ちようとも断じて学は止めん。私たち学徒が学問の火を守らずして誰が守る? 我々には日本の文明を守る重大なる責任があるのだ」

街道にて土佐藩軍を追う蜆。雨が降り出し、ずぶぬれになって一軒の百姓屋の軒先で蓑をふるう。
「だんな、こっちへ来てお温まりなさい。戦争でみな逃げ出してしまったらしいんで。なにも遠慮はいりませんよ」
商人らしき男が囲炉裏端から声をかけた。
「だんな、やっぱり会津にいらっしゃるので?」
「うん」
「そうだろうと思いましたよ。へっへっへ、どうも上野の彰義隊は残念なことでございましたねえ」
蜆は身構える。
「へへへへ、何も隠すことはないでしょう。あっしは江戸っ子だ。徳川様の御恩は忘れねえ人間でさあ」
蜆は腰を下ろして男をにらみつけた。
「早合点するな。わしが会津に行くのは白川の官軍に加わるためだ」
「へええ、官軍ですって? そうですかい、そんなら何も、」
男はそう言うと男は身を乗り出し、
「だんな、実はあっしもね、会津征伐の白川の官軍に使ってもらってひと働きする気でさあ。あっしは江戸のケチなばくち打ちだが、なにしろこのご時世じゃあ、ただ行ったところで使っちゃくれねえと思って、道々彰義隊の落人をみつけ門所に知らせて証明をもらってるんでさあ。はっはっは、どうもおみそれしやしてすみませんでした」
「小やみになるまでしばらくお邪魔したいのですが」
そこへ入ってきたのは会津の家に戻ろうとしていた正一郎であった。
「どうぞ」
と蜆は答えた。
「だんな、どちらへ?」
ばくち打ちが正一郎に尋ねた。
「ん? 会津の二本松に。三年ぶりで故郷に帰る途中です」
それを聞いた途端、ばくち打ちがいきなり表に飛び出した。男が訴人するとみてとった蜆はそれを見て男を追い、もみあったあげく、切り捨てる。悲鳴を残して男は走り去った。
正一郎は固い表情のままそれを見ていた。
蜆は正一郎のところに戻り、
「あなたは会津を守るために、官軍と戦うために二本松に参られるか」
「私は三年前に国を出て、京、大阪の辺をうろついて、会津の決意を聞いて、せめて大義にもたらせたくないと思って同藩を説得に来たが遅かったのです。二本松は某諸藩と結託し賊となってしまった。
しかし私はまだ望みは捨てておりません」
「そうですか」

会津二本松;
おけいが小作人たちと作業している。
「残りの杉苗200本はここに植えておくれ。それから西側の切り後にはヒノキを植えてるからその用意をするんだよ」
「へ、承知いたしました」
「お嬢様、こんな騒ぎの中でこんなことしていてもいいのですか」
「だって、騒ぎといったってお百姓だって米を作っているんでしょう。作らなければならないからやってるんじゃないか」
「へえ、それはまあそうでございますけれど、」
「そんなら山の木だっておんなじじゃないか。切ってしまえばなくなる。あとは三十年も五十年もたたなければできないんだからね。たとえ私たちが滅びたとしても後々のひとに役立つことは残しておきたいと思うの」
「あれ、おや、」
爺やが道のほうに手をかざす。正一郎が笑いながら、
「おけい!」
「まあ、お兄様、」
「おう、若旦那、おかえんなさいまし」
「おけい、大したことをやるようになったな」
正一郎はおけいの仕事ぶりに感心する。
「仕方ないでしょう。お兄様は家をお出になったきりお帰りにならないし、お父様はお年寄り、弟はまだ小さいし、」
「うーん。お前が山も畑もみんな指図していたのか」
「お嬢さまは大変でございますよ。大旦那さまはいつも、おけいが男なら、とおっしゃいましてな」
「うむ、お父様はご無事か」
「はい」
「ご無事はご無事でございますが、なにしろお年がお年でな」

実家にて:
「東北諸藩の言い分はみな父上と同じです。しかしみな何にも世界の大勢を知らなすぎるといって過言ではないと思います。隙あらば日本を狙う、英米仏の強国に対して日本の自衛策はただひとつ、すなわち一国としての強い団結よりほかに道はないのです」
正一郎は熱心に父を説き伏せようとするが、父は、
「しかし、血気のものが  奥羽一帯が同盟を締結した今となってはどうすることもできん。この上は徳川の御恩に報いるために城を枕に討ち死にしか、」
「父上、同じ滅びるなら何故大義のために滅びないのです? 他人はどうあれ、私は子として増水一家だけでも官軍と戦うことはやめていただきたいのです」
父は苦渋の表情。弟の正二郎が険しい顔で兄に迫る。
「兄上、増水は今は郷士でも昔は由緒ある立派な武士でした。武士が忠義に従わずしてなんで生きられましょう」
「正二郎、いまは殿に忠義よりも国に忠でなければいけないのだ」
「国に忠義とは偽官軍に降伏するということでしょうか」
「お前は今の、」
「お兄様」
おけいが口をはさむ。
「このごろでは百姓までが傭兵となって命を投げ出しているんです。
武士の作法を教え込まれた私たちに今それをやめようとおっしゃるのは無理でございましょう」
正一郎は無言のまま刀をとって立ち上がる。驚くおけい。
父は背中を向けたままである。

「お兄様、」
家の門を出ていく正一郎におけいが声をかける。
「どうぞ、これをお持ちくださいまし」
「何だ、金か?」
「はい。これから先どんなことがあるかわかりませんから、お持ちくださいまし。それから、これには傷薬が入っておりますから、」
「印籠か」
意は通じなかったが、兄はおけいの心やりに感謝する。
「父上と正二郎のことはよろしく頼んだぞ」
「はい」
「達者でな」
そう言って正一郎は立ち去っていった。

「おけい様、」
正一郎を見送っていたおけいにうしろから声をかけたのは富枝であった。
「お返事をうかがいにまいりました」
「みなさまにはおわかにならないかもしれませんが、六月と七月という時は百姓にとって一番大切な時なのです」
「百姓の道と殿様への道とどちらが大切でございましょう」
「農は国の礎と申します」
二人が言い合っていると、突然人々が叫びだす。
「わあ、来るぞ、来るぞ!」
馬の足音の後、大砲が鳴り響く。

激しい戦闘が続く。
ひとりの兵士が敵に切りかかろうとする。
「待て、切るな」
正一郎は正二郎が斬られようとしているのを見て止めたのである。
「あ、兄上」
官軍の兵士が叫ぶ。
「裏切り者!」

正一郎は正二郎をかかえる。
「正二郎、しっかりしろ」
だが、正二郎は息絶えた。

呆然として立ち上がる正一郎を弾丸が貫いた。
「増水さん」
硯が正一郎を抱きかかえる。
「ぼ、ぼくは最後まで力を尽くそうとした。だがだめだった。藩はおろか親兄弟をも説得することはできなかった。だが、これだけは覚えておいてもらいたい。僕の心は最後まで国を守ることに変わりはなかったのだ。お互いに苦しい時代に生まれたのだ」
「増水さん」
「蜆さん、こ、この印籠を、君にあげる。傷薬だ」
「ありがとう」
「元気で働いてくれ」
「増水さん」

増水家にて;
おけいは仏壇に手を合わせている。
「お嬢さま、お嬢さま!」
爺やがかけこんでくる。
「お城が、お城が、落ちました!」
「それでお父様は、」
「は、はい。旦那様は竹田御門をお守りになって、最後をお遂げなさいました」
「正二郎はどうしました」
「お可哀そうに、少年隊は全滅で、生き残ったお子様がたは、敵の手にかかって死ぬよりは、と、みなさま、腹切っておしまいになりました」
大砲の音は益々激しくなる。
「お、お嬢様、早く、早く、お逃げなさいまし。爺やがお供いたします。お嬢さま、早く、早く!」
「爺や。お前の娘は猪苗代湖の温泉場で働いていたね」
「はい」
だがおけいはなおも動こうとはしない。
「お嬢様! 早くお逃げなさいまし。爺やがお供をいたします。お嬢さま!」
爺やは何度も促すのであった。

温泉場にて、朝:
おけいが庭を掃いている。
「お嬢様、」
「まあ、およしさん、あんたはまだ私のことをお嬢様と呼ぶの?」
「だってお嬢様ですもの」
「いいえ、あたしはこの家の女中よ」
ためらいながらも、およしは、
「おけいさん、あの、旦那様は?」
「旦那さまなら今あちらに、」
そう言っていると宿の主人が歩いてくる。
「あ、旦那様」
「いま、駕籠の権蔵が官軍の負傷者をかついでまいりました」
「何、官軍の? それはさっそくお手当もうせ。粗相があってはならんぞ。庄屋から厳しい御触れじゃからな」
官軍の兵士と聞いておけいの顔が険しくなる。

離れ屋で:
けが人は蜆平九郎であった。
休んでいた蜆が苦痛のうめき声を上げ始める。
「あの、お気づきになりましたか」
「だ、だれです?」
蜆の目には包帯がまかれている。
「動くとお傷にさわります。お静かになさいませ」
「こ、ここはどこです?」
「猪苗代の温泉宿でございます」
「あんたは?」
「手伝いの土地の娘でございます」
「このうちはどんなおつもりで私の手当をされるのです?」
緊張した声で蜆は尋ねる。
「ご安心なさいませ。この村は庄屋さまはじめ村のものも官軍方でございます」
「さあ、どうぞごゆっくりご養生なさいませ」
ほっとした蜆をおけいは優しくふとんに戻す。
「お傷は急所をはずれているようでございます」
「ありがとう」
庭のほうからおよしが、
「お嬢さま、」と言いかけて「おけいさん」と言い直す。
「はい」
およしはおけいの耳に、
「おとっつぁんが帰ってまいりました。外でお待ちしております」

爺やは温泉の水で顔を洗っている。そこへおけいたちが現れる。
「爺や、爺や」
「お嬢さま、お手紙はたしかに若松にお届けいたしました。お喜びなさいませ。その噂はだいぶ会津軍のお役に立ったそうでございます」
「また使いを頼むよ」
「はい。それから富枝さまはご無事でくれぐれもよろしくとのことでございました」
「そしてスネル様は?」
「まだ上海とやらからお帰りがなく」
「では、新しい武器は届かないっていうのかい?」
「はい」

再び病室にて:
目に包帯をまいた蜆がおけいに言う。
「目の前で進んでいるこの尊い戦いに参加しなければ武士の家に生まれた甲斐がないと思ったんだ。福沢先生の戒めを破って塾を飛び出したが、いったい何をしたろう? ろくな働きもしないうちにこのざまだ」
「でも、そんなにいらいらなさいましては、」
「じっとしていられますか! 今日は官軍があの村を通った、どこを攻めたと毎日噂を耳聞きながら、ひとりでは身動きもできないこの口惜しさだ。なんのためにこんなところまで来たのか」
「でも、なにも遊んでいてお怪我をなさったのではないでしょう」
蜆はおぼつかない手つきで茶碗を置く。
「どうかなさいましたか」
「飯も食べたくないんです」
蜆が床に横たわるとその拍子に印籠が滑り落ちる。
「あ、この印籠は」
それはおけいが兄に渡した傷薬の入った印籠であった。
「印籠? 印籠がどうしました?」
「い、いいえ」
「おけいさん、あんたは細かいところに目の届く人だな」
「ただ、あまりご立派なお品なので」
そう言いながらおけいは印籠を蜆の手に握らせた。
「これは人にもらったのだ」
「まあ」
「実に立派な人だった。二本松の増水正一郎という人だが」
驚くおけい。
「自分の藩を朝敵にすまいと最後まで努力して、ついにはせめて親兄弟だけでも行かせまいとしたが、入れられなかったのだ。私はふとした知り合いだったが、二度目に出会ったときにはその人の最後の時だった」
手ぬぐいを口におしあて必死になって泣き声を押し殺すおけい。たまらなくなって立ち上がる。目の見えない蜆にはおけいの動揺に気づかない。
「実に見上げた最後だった。故郷に帰った努力もむなしく、立ち去ろうとしたときはすでに乱戦だったので。その中で乱暴な官兵が少年を斬りまくるのを見かねて発砲したのだ。増水さんにとってこれほど残念なことはなかったろう。その責めを知るや、その場に銃を投げて官軍の一斉射撃を受けたのだ。行き会わせた私を見ると、やむなく戦うが、国を思う心は変わらない。苦しい時代だと言った。そしてこの印籠をくれて、働いてくれと言って死んだのです」
おけいはついに嗚咽の声をもらした。
「おけいさん、どうしたのだ? どうしたのです、おけいさん」

笛と太鼓の音とともに田舎道を行軍する官軍たち。

百合の花を活けているおけい。
「ああ、いい匂いだ。本当にいい匂いだ」
おけいはにっこり笑う。
おぼつかない足取りで蜆は立ち上がって縁側に出る。
おけいは活けた百合の花を床の間に飾る。
「目が見えぬと思いもよらぬことに耳や鼻の感が良くなるものだな」
「そうですか」
「おけいさん」
「はい」
「あんたの身の上を当ててみようか」34;19
「ええ、どうぞ」
「まず名前がおけいという。次は年だ。18、いや19だな」
「まあ」
おけいは楽し気に微笑む。
「そんなにみえますかしら」
「まだ見えないが、そう思うんですよ」
「それから?」
おけいは促す。
「それから、背がすらりと高い」
「まあ、どうしておわかりになりますの?」
「昨日、隣の部屋で鴨居の品物を下女に取ってやったな」
「まあ、そんなことまで」
「それから、あんたは手伝いの土地の娘と言われたが、並みの端た女ではないな」
おけいは不安げになる。
「武士の娘ごに違いない」
「と、とんでもない!」
「いや、確かにそうだ。立ち居振る舞い、決してただの土地娘とは思えぬ。それに、」
蜆は手探りをする。
「あ、おけいさん、」
「は、はい」

次の場面ではおけいに手をひかれた蜆が川岸を歩いている。
「おけいさん、このあたりは美しいだろうな」
「ええ」
「とてもきれいです」
「それが、それがもうすぐ見られるのだ。おけいさん、あと二三日でこの包帯が取れると思うと、嬉しくて昨夜も眠れなかった」
「そうでございましょうね」
「わたくしの幸せを考えてください。失ったと思った目が明く。何よりもまずあんたの美しい顔が見られるのだ」
「いいえ、私をご覧になったらきっとがっかりなさいます」
「何を言われる。私の心の中にはあんたの顔が見えているのだ」
「そうおっしゃられると、私、どうしていいか」
「おけいさん、あんためくらの感を知らないからそんなことを言うが、本当によくわかるのだ」
「ああ、もうすぐ見られる、あんたが見られる。広い空が見られる。青々とした山が見られる。なにもかも見えるのだ」
「だんなさま!」
下男が走ってきて蜆を呼ぶ。
「お喜びなさいまし。北条峠が破れましたぞ」
「なに、北条峠が?」
「はい、官軍がどんどん乗り越えているそうで、」

峠を超える官軍の群れ。

ひとり歩くおけい。おけいにとって官軍の進軍はつらい知らせであった。
「お嬢さま、お嬢さま!」
爺やがかけつける。
「爺や、どうだった若松は?」
「とうとうだめでした。越後口も破れました」
「ま、」
「それに、進んできた敵の兵も全部攻め込んできまして、街は大騒ぎでございます」
「それで富枝さまは?」
「お武家さまはみんなお城にお入りになりまして、スネル様の大砲も間に合わず、お武家様はお城を枕に討ち死にの覚悟の由にございます。あ、おしげぼう、おしげぼう」
旅姿のおしげが駆けつける。
「お嬢さま!お屋敷が焼き払われてしまいました!家はとうとう… 太吉さんは怪我をしまして、私はやっと逃げてまいりました」
「それで太吉は?」
「それが命は助かりましたけど、その他に作兵衛さんは流れ弾にあった死にました。xxさんは行方知れずになりました。この騒ぎで田んぼも畑もめちゃめちゃになって、お嬢さま、私はいったいどうしたらいいんでしょうか」
おけいは振り向いて、
「爺や、村へ帰ろう」
「でもお嬢さま、今のありさまでは、」
「でも何とかしなければみんな困るばかりだよ」
「それもそうでございますが、」
「さあ、みんなで一緒に村へ帰ろう」

その夜、寝静まった蜆の部屋にひっそりとしのびこむおけい。
「おけいさん」
寝込んでいたはずの蜆が声をかける。
「北条峠が破れた以上、私などにはもう用はないのですか? 今までのご親切も、ただ官軍の様子を知りたいだけのお気持ちでしたか。印籠はだいぶご執心のようだ。差し上げてもいい」
「蜆さま、お許しくださいまし。私は、兄の形見が欲しかったのでございます」
「何? 兄?」
「はい。私は増水の妹でございます」
「そうでしたか」
「始めはあなたのおっしゃるように官軍の様子が知りたかったのです。でも、あなたのお話をうかがい、また兄のことをお聞きするうちに、私はいつか苦しむようになりました。ひとつの会津を守るよりもあなたや兄の考えのほうが正しいのではないか、そう思うようになりました。それからの私は、自分で自分がわからないように…」
「おけいさん、では、やはり、ご親切を素直に考えてもいいのですか? 私はまだ目が見えない。だが、目の中には美しいあなたをいつも思い浮かべているのです。今では忘れることのできない人なのです。おけいさん、」
「はい、」
「おけいさん、
「はい、」
繰り返す蜆の呼びかけに泣き崩れるおけい。

朝、医者が蜆の包帯をとる。
「まだまだ、まだ目をつむったままで。そうら、静かに明いてみなさい」
「あ、見える! 目が見える!」
見守っていた宿の主人が医者に、
「ありがとうございました」
蜆は座敷の中でおけいの姿を探す。医者が尋ねる。
「ふらふらとすることはありませんか」
「いや、壮観です。よく見えます」

そのころ、おけいはせわしく宿を出るところであった。

おけいのことが気になりながら、蜆は宿の主人に丁寧にあいさつする。
「ご主人、長い間のご厄介、有難く、忘れることはありません」
「いやいや、一向にいたりませんで」
「あのう、おけいさんは?」
「おけいはいま向こうへ行きましたが」

急いで追いかける蜆。

道でおけいを待っている爺やとおしげ。
「爺やさん、お嬢さまが来ましたよ」
「お嬢さまあー、こちら、こちら」
後ろ髪を引かれるおけいであったが、待っている爺やとおしげに追い付く。

追ってきた蜆は近くにいた女中に、
「おけいさんは来なかったか?」
「はい。あのうこれをお渡しするようにって」
女中はそう言って蜆に手紙を渡した。
「で、どこへ行ったんだ? どこへ行ったかわからんのか?」
「はい」

歩きながら手紙を読む蜆。読み終えると手紙をふところにねじこみ、走り出す。
山道は二手に別れていた。
蜆は左の道をとる。運命の分かれ目であった。

その後、時代は瞬く間に変わった。時は明治。
会津の忠誠むなしく江戸城は無血開城され、天皇の下に新政府が樹立。廃刀令や断髪令が出され、洋装姿の日本人も珍しくなくなりつつあった。

横浜
エドワード・スネル邸

あわただしく荷物を運び出す人々。
階上からそれを眺める福沢諭吉と門弟の鮫島。
「先生、スネルは何を始めるつもりなのですか」
「さあ、桑の木に茶の木らしいが、大変な数だな」
「鉄砲商人がこんなもの集めてどうするつもりなんでしょう」

部屋の戸が開いてスネルが入ってくる。それを追って、
「スネル様、スネル様」
「だめだめ、今そんなことを言う、だめです。ひとりいやになる、みんないやになる。困ります、だめです」
「でも、スネルさま、わたくし、」
「太吉、わたくし、許しません」
そこへ
「スネルさま」
「お嬢さま!」
「私が話してみましょう」
「おけいさん、わたし、太吉許しません。あなた話してください」
そう言ってスネルは階段を上っていってく。階上の部屋では福沢諭吉が待っていた。
「ああ、福沢さん、お待たせしました。これ、アメリカ、エコノミカル、必須です。経済の歴史、きっとあなたの役に立ちます。お別れのしるしです」
「や、ありがとう。Thank you」
諭吉が本をとって調べている間、鮫島が聞く。
「スネルさん、あの外のひとたち、いったい何をしているのです?」
「あのひとたち、会津の百姓です。戦争で困って、百姓、アメリカで百姓します。コロニーです」
コロニーという言葉を聞いて諭吉が本から顔を上げる。
「コロニー? 植民地ですな」
「そうです。あちらで桑の木、つくります。蚕を飼う、糸できます。お茶の木つくります。百姓たち、みんな幸せです」
「ほう、それはいいことを思いつきましたね。これは大変りっぱな書物、ありがとう」
「あなたの気に入って、わたくし、うれしいです」
「では、いただいて帰ります」
ドアを出ながら鮫島は諭吉に「散歩でもしたいですな」とつぶやく。
諭吉はスネルと握手する。
「ありがとう」

階段の下で泣き声がする。諭吉たちは思わず話を聞いてしまう。
太吉「すまねえことでごぜえますが、考えているうちに段々心細くなりまして、」
おけい「そりゃあ、お前たちばかりじゃない。みんな心細いんだよ。でも今になってそんなこと言い出したら、みんなの気持ちが迷うじゃないか。アメリカといえばずっと文化の進んだ広い広い国だよ。そこへ行って広い土地をたがやして日本人意気を見せると思えば元気も出てくるじゃないか」
「へ、へえ、それはそうでございますが。女房がどうしても嫌だと言い出して、わしも考えると何も日本を出ていかなくとも、」
「私は何も無理に勧めるわけじゃないけど、」
「太吉、今になって何を言い出すだ!」
いつの間にか仲間が集まってきて太吉を責め始める。
「みんなで決心したことでねえだか。わしらはみんな増水さまに末代お世話になっているだぞ。お嬢さまのおっしゃることに間違いはねえだ。もうじき船が出るというのに何を言い出すのだ」
「ねえ、太吉」
おけいが割って入る。
「うちの田や森もなくなった今、おまえどうする気だね? あたしはそのほうが心配なんだよ’」
「お嬢様、すんません」
泣きながらおしげが言う。
「私の心得違いでした。あたし、なんだか赤ん坊ができたみたいで、心細くてこんなこと言いましたけど、」
「まあ、赤ん坊が?」
おけいが驚く。
「へえ」
太吉が恥ずかしそうに答える。
「そんなら何も心配ないじゃないか。向こうにはお医者さんもいるし、仲間の中にだって年寄がいるよ」
「はい、行きます。おまえさん、お嬢さんにわびて勘弁してもろうてはい」
「お嬢さま、」
「いいんだよ、いいんだよ、安心おし。私は決しておまえたちを見放しはしない。きっと幸せにしてみせるつもりだから」
「お嬢様、つまらねえ心配をかけてすまねえことをいたしやした」
「太吉、ああ、それを聞いて俺たちも心強い」
「さあ、元気を出しな」
みな口々に太吉たちを励ました。

港を歩く諭吉たち。
「あの女は大変な女だね」
「は。驚きましたなあ」
「女の身で、海を越えて遠い外国に働きに行くんだからねえ」
「は。われわれもうっかりしておられませんな」
「時代というのは恐ろしい力で変わっていくものだな。これから日本はますます変わっていくぞ」
「そうですね、まったくですなあ。あ!」
すぐ先で、やくざっぽい男たちがひとりの男と争っていた。
「なんだね?」
「は、先生、蜆平九郎です。蜆!」
鮫島は諭吉にそう告げると蜆の後を追った。

男たちは蜆としばらく斬り合っていたが、歯が立たないとみて逃げ去ってしまう。息を切らしながらも蜆は刀を投げ捨て石垣の上に座り込む。鮫島は険しい声で呼ぶ。
「蜆!」
「誰だ、貴様は?」
「おい、蜆、先生だぞ。福沢先生だぞ」
「福沢先生? ふ、俺はそんな人は知らねえよ」
「おい、蜆、先生にご挨拶しろ。立て、立ってご挨拶しろ」

いつの間には後ろに諭吉が立っていた
「鮫島」
「は?」
「君は何か人違いをしてやしないかね。その男の言うとおり、私もその男を知らない。私の知っている蜆は、もっともっと立派な男だった」
蜆は黙って立ち去っていく。
「おい、待て」
「おい、鮫島」
「は」
「いいから捨てておけ。性根の座らん奴はああいうことになるんだ」

HOTEL BAR
ORIENT

鏡で額の傷を調べる蜆。
ノックの音。
「誰だい?」
男が二人入ってくる。
「兄貴、面白い仕事があるんだが、手を貸してくれないか」
「スネルという鉄砲商人を知らねえかい?」
「知らない。それがどうしたんだ」
「俺たちの親分がある人に頼まれてスネルから鉄砲を買おうとしたんだが、野郎、どうしても売らねえんだ」
もう一人の男が言う。
「どうしてもだめなら最後は腕づくなんだ」

スネルとそのボスの会話:
「その鉄砲、大倉組に売る約束しました」
「そこんところをひとつお願いしたいんですが。もちろん大倉組よりもずっとずっと高く買いますが」
「いやそれいけない。わたし契約しました。契約、一番大切です」
「いやスネルさん、そこが御商売でしょう」
「違います。商売、ビジネスに契約、一番大切です。それ破る、野蛮人です」
「では、どうしてもだめだとおっしゃるので」
「残念です。仕方ありません。早くお帰りなさい」
男は不気味な目つきになっていた。

塾の一室。鮫島が門下生たちと話をしている。
「塾にいたときの蜆とすっかり人間が変わってしまっているんだ。僕はそれもわかるような気もする。しかし、あのまま放っておいたら蜆という人間の頭が惜しいんだ」
「そうだ。あれの英語の成績はまったく素晴らしかったからな」
「なんとか叩きなおして、もう一度この塾へ帰らせたいのだ」
「しかし、先生の教えに背いて飛び出した蜆を先生が許されるかどうか」
「とにかく頼んでみようじゃないか」
「うん、そうだ、それがいい。行こう」
一同、立ち上がる。

諭吉の部屋の前でひとりが声をかける。
「先生、お願いがございます」
「何だ?」
「先生、蜆をこの塾に呼び戻すことをお許しください。ぼくたちは蜆を元の身体にして勉強させてやりたいのです」
「蜆を? そりゃあ、いかん。現代のように何もかも大きく変化しているこの時代にこうして学問だけやっていることはよっぽどの努力が必要なんだ。今までも時代の認識が不足しているためにこの塾を飛び出したものもいる。そういったものの不幸は自業自得であって、そのこと自体、学問をする価値がないといってよろしい。学問とはそんな生易しいものではないのだ」
「しかし、先生、蜆だけはそんな人間ではありません。私はどうしても見捨てたくないのです」
「それは君の単なる友情であって。いかん、捨てておきなさい。では時間だから授業を始める」
「はあ」
一同は立ち去るがひとり鮫島だけは部屋の外に残っている。
その影を見て諭吉が声をかける。
「鮫島、君に横浜まで行ってもらおうか」
「え、横浜へ?」
「スネルに届けてもらいたいものがあるんだ」
それを聞いて鮫島の顔が輝く。
「先生、有難うございます」
「では、頼んだよ」

博打場で、男たちが丁半とやっているところ、突然踏み込まれる。
もみあいの最中、男がひとり離れたところに行き、ピストルを取り出し蜆に狙いとつける。それを見た女給のお秋、
「ちくしょう!」
男からピストルを奪おうとする。もみまっているうちに発砲。男たちは逃げ出していく。
蜆はお秋に向かって
「おい、これをやるよ」
「お金なんかいらないよ」
言われて蜆は金をふところに戻し、立ち去ろうとする。
「ちょっと、お願いだからこんな危ないことはよしておくれよ」
「ふん、余計なお世話だ」
「そりゃあ、どうせあたいみたいな女のいうことなんか聞いちゃくれないだろうけど、でも、あたい、心配なんだ。もしかあんたが、」
「なに? どうしようとおめえに関わりがあるかよ」
警官が入ってきたのを見て蜆は逃げ出す。
洋館が立ち並ぶ路地の中、蜆は開いている窓を見てよじ登る。警官たちは別の方向に行ってしまった。

それはスネル邸であった。
部屋の中にはおけいが立っていた。
蜆の姿を見ておけいははっとする。
「迷惑をかける。声を出しちゃいけねえ」
おけいはゆっくりと窓辺に近寄る。蜆はおけいを避けて部屋の奥に行く。
蜆はおけいの鏡台の品を手にとって、
「姐さんはなにかい、やっぱり毛唐に囲われてるのかい?」
おけいは落ち着いた声で言った。
「蜆さま、私はそんな女ではございません」
「おめえ、俺を知ってるのか」
「存じております」
「へえ、どこで会ったっけ?」
「ほんの一度お会いしただけですからおわかりにならないとは思います。でもその時分のあなた様は立派な方でございました。なんというお変わりようでしょうか」
「ふん、ふふふ。匿ってもらったお礼に聞かせようか。これも女ゆえさ。俺の前に現れてさんざん惚れさせておいて姿を隠した女がいたんだ。会津の温泉場だった。そのときが俺の一生のうちで一番生きがいのあるときだったんだ。それからの俺はめちゃくちゃさ。未練のようだがいまもまだ思いきれない。江戸から横浜まで必死になってその人のことを探し回って、いまじゃ、いいごろつきさあ。

そのとき俺はめくらだった。めくらの心の中では姐さんぐらい美しい人だと思っていたが、いやあ、姐さんほどではなかったかもしれないけど、おれはたとえつまらない女でもおれはその人の心のきれいなところに惚れこんでいたんだ」
「もしもいま、その方にお会いになったらどうなさいます?」
「いまさら仕様がねえや。足を洗うには悪くなりすぎたよ。姐さん、ありがとうよ、恩に着るぜ」
そう言うと蜆はまた窓から出て行ってしまった。
「蜆さま!」
おけいは窓に走りよる。蜆の後ろ姿が見える。
おけいは階段の上から
「太吉! 太吉!」

おけいに指示されて蜆の後を追う太吉。太吉は蜆がBARに入るところを見届けた。
バーでは蜆を助けたお秋がかけよる。
「無事だったのかい、よかったねえ」
女には目もくれず蜆は二階に行こうとする。
「蜆さん、蜆さん、」
男が蜆の後ろから声をかける。
「ん?」
「ちょっと手を貸してもらいたいんだ。スネルの野郎、いよいよ鉄砲を大倉組に引き渡すらしいんだ。それをふんだくりたいんだが、どうしても有り場所がわからないんだ」
「断るよ。俺はいま何もしたくないんだよ」

蜆はベッドに身を横たえて目を閉じる。おけいの声がよみがえる。
「蜆さま、わたしはそんな女ではございません」
「おめえ、俺を知ってるのか?」
「存じております」
あの女、どっかで会った気がするが、と蜆は自問する。
「思い出せない」

「どこの女さ?」
いつの間にかお秋が部屋に立っていた。
「仕様がないねえ、また思い出していたんだね、ねえ、蜆さん、」
「うるさい!」

おけいもまたさっきの会話を思い出して泣き伏していた。
「いまさら仕様がないや、足を洗うには悪くなりすぎた」

そこへノックの音。
「どうぞ」
スネルと富枝が入ってきた。
「おけいさん、どうかなさいましたの」
「いいえ、なんでもございませんの」
スネル「顔色よくありません。アメリカ行くの、いやになりましたか」
「いいえ、そんなことございませんわ」
「おお、そうですか。無理ありません。日本とも明日一日でさよならです」
おけいは顔を覆った。

翌日 スネル邸
怪しげな男が外にいる。

「お出かけでございますか」
出かけようとするスネルに妻の富枝が声をかける。
「ああ、大倉組、使いきました。ちょっと行ってきます」
「行ってらっしゃい」
スネルは外にいた男と出かけていく。

おけいは蜆のいるバーの前で逡巡している。ひとりの男が出て行ったのをきっかけに思いきったようにバーに入っていく。

裏口では男たちが何かを待っていた。
スネルと使いの男が入っていこうとすると男たちが取り囲んだ。

「ごめんください」
おけいはひと気のないバーに入って声をかけた。
掃除夫の男が箒をもって現れる。
「あのう、ちょっとお伺いしますが、こちらに蜆さんとおっしゃる方がおみえになっていらっしゃいませんでしょうか」
「蜆さん? 蜆さんなら…」
「いないよ」
いつの間に現れたか、後ろからお秋がぴしゃりと言う。
「おまえさん、誰だい?」
「は、わたくしは以前蜆さまと知り合いのものでございます」
お秋がにやりと笑って、
「おまえさん、そんな人はここにはいないよ。お帰り」
「でも確かに、ここにおいでになるのを見たんです」
「そりゃあ、お酒を飲むところだもの。誰だって来るよ。だけど、そんな人、知らないよ」
「お住まいだけでもわかりませんでしょうか」
「しつこいねえ、いないったら、お帰りよ。
仮にいたって、あたしはその人をあんたに会わせやしないよ。お帰り!」
なんとなく事情を察したおけい。目をふせて、
「わたくし、遠いところにまいりますので、もう二度とお目にかかれないと存じまして、ちょっとお会いしたかったのです。ではどうぞよろしくお伝えくださいませ」
おけいは深々とお辞儀をし、去っていった。女たちが珍し気に見ていた。

バーの支配人が来た。
「お秋さん、あの人誰です?」
お秋はカウンターにもたれてうなだれた。
「どうしました? へへへ、蜆さんのひとですか?」
支配人は百合の花束を花瓶に活けた。

蜆も物思いにふけっていた。
おけいはとぼとぼと帰っていく。
蜆は百合の花の前で考え込んでいたが、とつぜん、
「あ、そうだ」

おけいは波止場を歩いている。
蜆はスネル邸に走っていき、荷造りをしている爺やに声をかける。
「あの、おけいさんがこの家にいるはずだ。おけいさんはどこだ?」
「おけいさん?」
「うん」
「お嬢さまか」
そこへ太吉がやってくる。
「太吉、お嬢さまはどこへ行っただ?」
「お嬢さま? お嬢さまなら船着き場におりますだ」
「そうか」

海を見ながら考え込んでいるおけい。そこへ蜆が現れる。
「おけいちゃん!」
「蜆さま!」

一方、暴漢どもに襲われたスネルは地下室に運び込まれた。

船着き場では;
「でも蜆さま、またお別れしなければならないのです」
「どうしてです?」
「私を頼りにしてくれる百姓たちと一緒にこの海を越えてアメリカに渡るのです」
「えっ? アメリカへ?」
「はい。私の従妹が嫁いだスネルという方のお世話でアメリカに土地を求めて移住することになったのです」
「スネル?」
スネルという名前を聞いて蜆は驚く。
「蜆さま、お会いするのがお別れのときは思いませんでした。でも、これが私たちの運命かもしれません」
「おけいさん、行かないでくれ。今あんたに行かれたら、ぼくはどうなるんだ。行かないでくれ」
「いえ、私は行かなければならないんです。私ひとりが残るわけにはいかないんです。百姓たちも私が行くからこそ来てくれたんです」
「そんならぼくも行かせてくれ。今離れたら二度と会いはできないのだ。行かせてくれ」
「いいえ、いけません。私の知っている蜆さまはもっと違った方でした。いまここにおいでのお方は違ったお方です」
「だから連れていってください。ぼくはもがいているのだ。立ち直りたいのだ」
「私がいて立ち直れるのならそれはいつかまたくずれるとはお思いになりませんか。それにまたあなたが本当に立ち直って立派なお仕事をなさる気なら日本を離れてはいけません。いまの日本はあなたのような方をいくらでも求めているではありませんか。
蜆さま、私はそれをお願いしようと思って先ほどあなたをお訪ねしたのです。そのときはあなたにお会いできませんでしたが、お会いできないほうが苦しまずに済んだかも、」
おけいは涙を浮かべつつそう言った。
そしておけいは走り去った。
「おけいさん、おけいさん」
蜆は後を追おうとしたが、荷役夫たちの群れにふさがれた。

一時の後、蜆はバーのカウンターにもたれている。
地下室から男が上がってきてボスの所に行く。
「どうしたい?」
「いやあ、まったく。スネルというやつのしぶといのはあきれましたよ。どうしても口を割らないんでさ」
「なあに、今に音を上げるよ。野郎、鉄砲をうまくさばいて大金をもってアメリカに行くつもりなんだろうが、そうは問屋が卸さねえ」
話を耳にした蜆は、考え込みながら二階に上がっていった。

スネル邸
訪問した男に富枝は、
「今朝ほど大倉組からの使いが来て出てまいりました」
「それはおかしいですなあ。大倉組の使いでしたら私より他に来るものはないはずです」
富枝は爺やと顔を見合わせた。
「爺や、何か間違いでもあったんじゃないかしら」

バーの地下室ではスネルが痛めつけられていた。
「やい、いいかげんにしろ。何も金を出さないというんじゃないんだ。鉄砲を売るんだから文句はないだろう。はい、といえばいいんだ」
スネルは首を振る。
「ようし、言わねえな、それなら、」
ボスはナイフと取り出す。

二階で考え込んでいた蜆は降りてきて地下室に向かう。
「おい、スネルをけえしてやれ」
「なにい?」
ボスが驚く。
「スネルをけえしてやれよ」
スネルはもがきながら蜆の言葉を聞いていた。
「野郎、あんまりいい気になって、なめるな!」
「なにい」
蜆はひるまない。
「けえさねえなら、おれが連れていく」
ものが壊れる音ととも男たちと蜆の争いが始まる。
上のバーでもその騒ぎが聞こえる。銃声も続く。
だが、蜆はなんとかボスをうちのめし、スネルのいましめを解いて背中にかつぎあげる。
倒されたボスは拳銃に手を伸ばすが、もはや力がつきたようだ。
スネルをかついで逃げようとする蜆を見て支配人は銃を向ける。
それを見たお秋は思わず前に走り出て盾になる。銃弾はお秋を貫き、お秋は倒れる。
戻ってきた蜆は支配人を殴り倒し、お秋を抱きかかえる。
「蜆さん」
「おい、しっかりしろ」
「ああ、蜆さん、すみません。一言わたしを許すと言ってください」
「なにを言うんだお秋、お前は俺の前に立った。お前は俺の命の恩人だ」
「いいえ、私はいけない女です。黙っていたんです」
「何を? 何を黙っていたんだ?」
「きのう、女の方が、あなたを訪ねて、ここへ来ました」
「女の人が?」
「早く、その方のところに行ってあげてください」
「お秋さん、すまない」

蜆はスネルを抱えて店の外に出した。
「さ、もう大丈夫です。お帰りなさい」
「あ、ありがとう」
「そしてアメリカで立派な日本人の村を作ってください」
「おう、あなた、それ、知ってますか」
「ご成功を祈っております」
「ああ、ありがとう。あなた、誰ですか? 私忘れません」
「おけいさんに言ってください。蜆平九郎はきっと立ち直ってみせます。そして遠い日本からおけいさんの成功を祈っております」
「あなた、どうしておけいさんを知ってます、蜆さん?」
「そう言ってくださればいいのです。さ、早くお帰りなさい」
「ありがとう、わたくし、きっと、きっと、おけいさん、言います」
「さあ、早く帰るんだ」
蜆はスネルの背を押した。

がらんとしたスネル邸。
おけいはひとり窓から海を見ている。
スネルが富枝とともに入ってくる。
「おけいさん、みな行きました。さあ、行きましょう」
「でもあなた、いざ日本を離れるとなるとだれでも、」
富枝がいいかけると、おけいがすぐ、
「いえ、わたしまいります」
といって手提げ袋をとりあげた。
「さ、行きましょう」

おけいたちが船に乗り込む。

蜆は鮫島とともにスネル邸に駆け込むが、そこはすでに無人であった。
「おけいさん!」
聞こえるはずのない声であるが、甲板にいたおけいにはその声が聞こえたような気がした。

スネルがおけいに言う。
「その青年、きっと立ち直ると言いました。あなたよりもっと、もっと立派な仕事すると言いました」

まだ傷の癒えない蜆は鮫島の手を借りて船着き場に行き、船影を追った。

「鮫島、おれはいまやっと目が覚めたんだ。頼む、先生におわびしてくれ」
「そうか、蜆。そう聞いただけでもおれは嬉しいぞ。先生もきっと喜んで許してくださるぞ」
二人の後ろに諭吉が立っていた。
蜆は膝をつき、土下座をした。
「許すわけにはいかん。塾を無断で出たものは許すわけにはいかんね」
蜆は絶望的な表情になる。
「先生、心からおわび申し上げます。お許しください。蜆は必ず元の蜆に戻ってみせます」
「蜆個人のために塾の規律を乱すわけにはいかん。それはお断りする」
蜆はうなだれる。諭吉は続いて、
「おい、鮫島、せんだって森有礼が日本で最初の洋学校を経営するのだが、誰か英語のできるものがいないかと探していたようだ。君、適任者があれば世話してやったらどうだ」
蜆の顔が輝く。
そういうと、諭吉は去っていった。
「蜆、いまの言葉、聞いたか」
「うん」
感動にふるえながら、
「先生、ありがとうございます」

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