雨日記 ~疲れ~

私が疲れを感じ始めたのは、いつからだっただろうか。

高校生の時にはすでにひどい疲れを感じていた。学校も遠く、電車とバスを乗り継いでいく登下校だけではなく、授業があり部活がある。そして、その合間の休み時間も友人とのやりとりや自分が周囲に比べて遅れていないかどうか、空気と合っているかとうかの確認作業を無意識に行っているため、休まる時間などない。

そして、帰宅後。我が家は母親の目に見えないレーダーが張られていて、規律というかルールというか流れみたいなものから逸脱があると侮蔑と怒りを向けられ、自分の肝が心底冷え、規律を完全に達成できないという自責に苛まれる、という休まらない場所でもあった。幼いころはより激しく彼女の怒りにさらされていたために、思春期に差し掛かるころには母親の目の届かないところにいても自動的に私の中にインプットされた母親を想定して怒りにさらされない行動を取り続けていた。自室で体を休めているはずのほんのわずかな時間であっても空気をよみ、いつ彼女が侵入してきても対応できるように臨戦態勢であった。そして、その緊張状態に自分自身を置いていることに対しても、私自身気づいていなかった。

私は小学校に入る前から絵をかくことが大好きだった。頭の中にストーリーが流れ、それをなぞるように絵を書いていく。集中し、心安らぐ時間だった。お金のないときには新聞の折り込みチラシで裏が白くなっているものをかき集め、たくさんの絵がかけるように端っこからとても小さく描き始めることで限られた紙面を有効に使っていた。少額のおこづかいをもらった時にはすべて落書き帳を購入していたくらい、その行為に夢中だった。だが、そのくらい夢中なことを私は気持ち的に母親から隠れて行っていた。そしていつ怒号とともに中断されるのか一部でいつもおびえていた。あまり驚きすぎないようにいつでも反応できるようにしていたのだが、それでも胸はドキドキしていて、怒られるのに耐えるという状況に備えているようでもあった。

いつでもなにをしても怒られる、そして話しかけても不機嫌な顔で無視をされる。そういう状態が母親の常態である、という認識にいつしか発展した。それも小学4年生のころにはそういう認識だった。気分的には常に怒られ、自分は迷惑をかけているため、受け入れてもらえない、という感覚だ。なぜなら怒られる理由はいつも私が「事前に説明を忘れていたため」、「事前にやることをやらないため」、「だらしがないため」、「自分勝手なため」。そのため「いつか大変な目にあう」と繰り返し繰り返しいわれてもいた。そのうち「自分勝手なために、迷惑をかける」私であり、「いつか大変な目に合う」というのが潜在的に刷り込まれていった。それは、その後の人生でも誰かと話すときには「きっとその人は私に対して怒っているであろう」という想定からコミュニケーションをスタートさせるという私の無意識の癖になっていった。だから誰かと話すとき、相対するときには怒られることの怖さ故に、「自分勝手な私により迷惑をかけられた相手」の負担を減らすような「事前の準備」を自分の中でするようになった。そのため、とてもシンプルなコミュニケーションやしぐさであったとしても、誰からも見えないところで行う負担が自分に積み重なっていった。そういう状態が一日中休む間もなく行われ、常に「できていない」私を責めていたために気持ちが休まることなく、中学校の終わりから高校にかけて極度の疲労を感じるようになっていった。

表面上は普通の子供だっただろう。だが、学校に通う足はひどく重く、部活での道具の準備をするための手の上げ下げですらひどい気怠さだった。おまけに常に自分が人に迷惑をかけ、怒らせているであろう劣等生であると感じている。一人になる時間が確保できると全く動けなくなるくらい疲れ、それは誰にも打ち明けたことはなかった。その頃、朝は登校する前に頻繁におなかが痛くなり、数分もだえくるしむということが起こっていた。最初は一人で苦しんで耐えていたのだが、あまりにも頻繁で、電車に遅れそうになるために母親に告げた。私がおなかが痛くなることに対して、そしてそれに対処しなくてはいけないということに猛烈にイライラをつのらせた母親に連れていかれた病院で、ストレスからくる過敏性腸症候群だと診断された。

このころのことを妹とたまに話すのだが、「熱がでて頭が痛くなっても、おなかが痛くなっても、どこまで痛くなったら痛いといっていいのか、休んでもいいのか、ということがわからなかったよね。」と笑う。そして、「自分の子がそうだったらすぐ休ませたりするけどね。すごいよね。」と付け足す。そこには少し悲しさが伴う。私も妹もいまだにおなかが痛くなったり、頭が痛くなったりすると「これは本当に痛いのだろうか」と自分の感覚をまず疑う、という癖がいまだにでて、夫に痛みで青ざめていること、休むように促されてようやく休む、ということをしてしまうのだ。

とにかく、その呪縛に気付いたのがここ数年。苦しさや疲労、ひどい自責の感覚の正体を追ってきてようやくたどり着いた。ただし、正体が判明したとしてもそれらをとるためには謎解きのような自分との探り合いと大量の情報の処理と書き換えが必要で、根気を要した。

そんな風に自分自身を苦しめ続けてきたこと、そして苦しめ続けてきた結果蓄積された悲しみ、怒り、やるせなさ、つらさ、を自分と向き合うほどに実感する。ある人に、「人生には素晴らしい出会いや出来事があり、それらが悲しみやつらい経験を吹き飛ばしてくれる」と言われたことがあるが、私に関していえば、それはそれ、これはこれ、で相殺されるわけではなかった。いや、相殺されるという言葉によってより奥に押し込められてしまったために取返しがつかないほどに蓄積してしまい苦しんできた人を私以外にも見ている。

「母親だって、大変だったのだから」という言葉に関しても、苦しみからの脱却する過程においては、害悪となる。なぜなら、大変だったのだからと理解することで自分の苦しみをやはりなかったことにする行為につながるからだ。「愛しているが故に」という言葉もやはり同じだ。悪意がないと足を踏み続けられながら理解しなさい、といわれても心身の痛みは増すだけなのだから。

少なくとも、私は自分自身がされてきたような扱いを、24時間絶え間なく緊張感を強いるようなことを、自分の子供たちには与えていない。与えようとも思わない言葉や行為を、私が子供のころに浴びるように与えられたことを悲しいと感じる。それは母親自身がつらかったからという言い訳で片づけられることではない。片づけられないことなのだ、と認識することすら、自分が悪いと思い続けてきた私には勇気がいったくらい、自分がだめなのだと植え付けられるような環境にいたのだ。侮蔑や怒りを与えられ続け、それに備えるようになり、守るためにそれを自ら受け入れていった。

人生の前半、私はそんな状態で孤独だった。孤独に苦しんでいた。孤独に疲労感でひっそりと動けなくなっていた。

でも、それは、私一人じゃない。ということがわかる。

笑顔の裏に、「それは私のせいだ」「たいしたことないことなんだから」と言い聞かせ、つらいと感じていることを引き受け、やり続け、心の傷を蓄積させていく。「皆がそうなんだから。」とつらいことをつらいといわせない環境。そして、言えない自分。

疲れている。と自分にも言えない自分。そういう世の中なんだから。みなが疲れているのだから。迷惑をかけるから。自分勝手だから。

この無限に続くようにみえる日常の中で、ひっそりと確実に増していく心身の疲れ。悲しみ。痛み。

私はもうそこにはいたくない。と何度もそう思い、そのたびに自分自身と向き合い続け、自分の内側からわきでてくるあらゆることに悲しみ、怒り、侮蔑し、理解し、癒してきた。それこそ押し込めてきたすべての感情や記憶を出し切ることで。そうしないと私は本当の意味での正常に戻れないから。私はスタート地点に戻るのだ。闇雲に、自分が何を目指しているのかわからないまま、トライ&エラーを繰り返しながらとにかく進んできた。

ずいぶん遠くまできたような気もするが、私自身、母親に対していまだに「よくそんなことができたものだ。」と心が冷え切った思いでいる。そういう思いを抱くということは、自分の中の情報がまだ未整理であることを意味する。出し切った結果、どういう関係になるのかということは全く手放したま、自分と向き合い続けている。私は私が正常になるためには切ることも厭わない。そうでないと世間様が奨励しているような、親への真の思いやりすらもてないから。

私自身が無害で被害者だといっているわけではない。私も無意識のうちに子供たちが後々つらいと感じるものを与えていることだってある。私は彼らではないのだから。だから私が母親に感じるように彼らが感じていたとしても、あまんじてうける。必要とされれば自分ができうる限り相対しようとは思っている。できうる限り。だが、私はそれをこえて私自身を大切にしたいとも思っている。

今、引きずるような疲れはなくなり、ただ、人生の景色を少しブルーグレーの色調にしている悲しみや気持ちのつらさはまだある。だから、雨音をききながら自分のうちにこもるような日には、その余韻を感じて、こんな文章を書きたくなるのだ。


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