ヒマラヤの雨

長女がまもなく2歳になる頃、夫と娘の三人でネパールにいった。私が結婚した前後は山岳地帯でのマオイスト(毛沢東主義者)のゲリラ活動が盛んで夫の両親になかなか会えないでいたのだが、その活動が少し落ち着いたことと義理の父親が年老いて山から下りられなくなる前にできるだけ孫と会わせたいという思いからだった。

9月中旬、ネパールの雨季も終盤となり、うっすら灰色の空からさーっと軽く細やかな雨が降ったり止んだりを繰り返す。カトマンズの街の緑は青々としていて、灰色の空を背景に植物だけが余計に鮮やかに際立つ。それ以外のすべては長雨のせいで湿り気をおびていて、屋内にいると場所によってはカビのにおいが鼻を刺激する。それが雨季の終わりの風景だ。ところどころ行き場のない水が溜まり、ひざ下までつかりながら歩かなくてはいけない道路もちらほらある。

2歳前の娘を連れての旅なのだが、雨季で少し冷えた体をあたためたくても太陽光発電に頼る温水シャワーは全くといっていいほど機能していないし、なんとなく宿はかび臭い。しかも夜は停電が発生すると真暗になってしまう。かび臭く、湿り気があり、おまけに真暗。相当心細い。リラックスのためにもっていった蜜蝋のアロマキャンドルを灯すが、当たり前だが全く明るくなく、余計につらい気持ちになる。ごはんにいたっては、初日にまったく辛くない豆のスープをお願いしたのだが、きたのはなんの配慮もされていない激辛のスープで、それを一口食べてしまった娘はスパイスの香りのするものを、以降、一切口にしなくなってしまった。

子育てが初めての私にとってのつらい旅のスタートだったのだが、夫や義理の両親たちはそんな環境が当たり前で私の心細さや不便さを感じていることにはまったく思いがいかないようだった。こんな中で、私は娘を守り切れるのだろうか、と不安がつのっていったのだが、反対に娘は日ごとに現地に溶け込んでいった。義理の両親、彼女の祖父母や叔父叔母もとてもかわいがってくれ、私がいないと眠れなかったのに、叔母の背中でおんぶされて眠るくらいに慣れていった。私にとって未知の部族のようにも見えた義理の両親たちは、完全に娘の祖父母だった。彼女はそこに居場所が用意されていて、私だけが完全によそ者だった。守らなくてはいけない、というのは私だけの杞憂だったのだ。

カトマンズで数日過ごした後、私たちは第二の都市ポカラへと飛んだ。ポカラは湖とマチャプチャレを中心とするアンナプルナ山脈が間近にみられるのんびりとした美しい都市である。カトマンズより安心して過ごせ、モンゴル系のグルン族が多く住んでいる。

そこで、娘は初めての友人をつくった。私たちの定宿のすぐ外には雑貨店があり、そこの幼い姉妹が、うちの娘をかわいがってくれたのだ。その日から娘は朝起きたら私の目をかいくぐって走ってそのお店に一目散で駆け込むようになった。躊躇することもなく、文字通り一目散に。振り返ることも不安がることもなく。そしてその家に上がり込んで一日帰ろうとしない。

数日後には、雑貨店の姉妹だけでなく、近所の子供たちにまざって遊ぶようになり、そこが彼女の居場所になった。雨はあいかわらずしとしと降り、じっとりした過ごしにくい毎日だったが、濡れることも気にせず彼女は毎日外で新しくできた友人たちと元気に遊んでいた。

遊んでいる最中は私に甘えることも、いることを確認するためによってくることもなく、友人たちとの遊びに夢中になっている。眠る前の夜ですら、友人の家に行きたいとぐずる。そんな彼女の姿をみて、私は、娘はすでに、私だけの娘ではないのだ、と腹の深いところで感じていた。私が過ごすだけでも四苦八苦し不安な中で、彼女はいとも簡単に、まるでここに生まれ、昔からいたかのようにそこにいる。彼女はこのヒマラヤの子で、私の知らない、私のもたないものをもっている。一瞬、さみしいような、置いてかれたようなやるせない気持ちが通過していくのを感じながら、私ははっきりとそれを認識することが求められているのだ、ということがわかった。

雨季のネパールで感じた私の心細さを微塵も感じていないように、彼女はそこに溶け込み、まるで私がいないかのように友人と遊んでいる。その風景の一つになっている。日ごとに私は彼女を、愛しい、でも一人の人間としてとらえるようになっていった。彼女は、私をこえて、知らない世界へと漕ぎ出していくのだ。私よりも遥か遠くへ。私は母親だが、一緒に旅をすることはかなわない。私が彼女に手渡せるのは、ほんの一部。なにかを託すこともせず、彼女のあるがままを大切に、おくりだすことしかできない。さみしいような、すがすがしいような、だからこそかけがえのない瞬間であることを感じ、胸にぐっとこみあげるものがあった。

その彼女ももう高校生。あの時の激辛豆スープのせいか、いまだに辛いものは苦手で、そしてどんなところにもまるで昔からいたようにさらっと友人をつくってくる。

あの時彼女に手渡そうと思ったものは、折々に手渡している。それは、母親として、ではなくて、私という人間が体感したこと、思い、経験、知恵。率直に、常識や建前などで脚色することも隠すこともなく。ありのままのことを。私の感じた真実というものを。そしてどれだけ愛しているか、ということを。それをすることで、彼女もまた自分の感じたあるがままを、肯定できるのではないかと思うから。私の手渡した一部が、彼女の一部を支えることができれば、あの時の私の思いが達成されたのだ、とも思う。そしてそれが、私の、無上の喜びだ。

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