モンスーンの雨
私は雨音が好きだ。
ぱらぱら、しとしと降る小雨から、滝のように降り注ぐ雨まで。
朝から夜までずっと、毎日毎日雨だったら、とても心落ち着くだろう。
そんな雨が降り注ぐのを感じて、電気もつけず、屋内でじっとしていられるときが私には至福の時だ。
私自身の存在がすべてから隠され、いまだ痛む古傷まですべて洗い流してくれるかのようだから。内側からじくじくとわく蛆虫のような自分を傷つける思いも、でてくるそばから激しい雨音がきれいにしてくれるから。
場所は、そう。石造りの建物がいい。東南アジアや南アジアを旅すると、家は大抵コンクリートでできていて、無機質だ。カーテンも薄くて、雨の湿気が入り込んでいて、なんとなく水気をすべてが帯びている中で、毛布かなんかかけてじっと耳を澄ませているだけ。天井をじっとみつめて、屋根に無限に降り注ぐ雨をじっと感じ取る。あとからあとから降り注ぐ雨を目をつむってみるのだ。雨と一体になって、私という存在はなくなる。溶けて、なくなっていくのだ。そういう時間が永遠に続けばいい、、、哀しみをおびた哀しい至福の時間だ。哀しみがしみだし、哀しみなのか自分なのかわからないものが流れ周辺を満たし、ただなにもきていないまっさらな、あたたかいような輪郭のない私だけがただ浮かんでいる。雨でしみだした自分という海の中で。
そんなふうに、私は長い間、自分自身を溶けていく場所を、機会を探していた。日常や、建物、景色、時間のすきまにあるような機会を。そこは誰もいないから、私の本性を誰もしることなく、あの子は人生をなげうったのだ、あきらめたのだ、という外部の目にさらされる場所がないところ。世界で私一人しかおらず、恥、という焼け付くような痛みをすりこんでくる残酷な正しさから逃れられる場所。
それは、雨の日。車の中。夜のまっくらなベンガル湾で、遠くの景色しか存在しないほんの一瞬。夕方の大学の図書館のすみで。明かりのきえた薄暗い帰り道で。真っ暗な玄関ホールで。シャンソンのような、なんだか悲しい音楽の一旋律で。荒涼としたアウトバックのはしで。夕暮れのカトマンズの安宿で。
私はうつろに空間に溶けて、救われる。セピア色をおびたような救い。これがあることで、ゆっくりと浮かび上がり、また泳ぎ始めるなにもない自分、なにもない、なににもなれず、なにももたない自分を少し許すのだ。また少しだけ泳げる分だけを、許すのだ。
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