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時が止まった場所 幻想の社会はどっち?

追い立てられるように過ぎていく毎日。「社会」にではじめたばかりの幼児から大人まで、文字通り老若男女を有無を言わさずおいたてる社会のスケジュール。私自身、そのスケジュールが疑いのない前提で、それに追い立てられていること自体に気付いていなかった高校生まで。朝ぐったりと起き、昨日こなせていなかったもの、今日こなさなくてはいけないものに追い立てられ、罪悪感をいだきながら、明るくふるまって毎日を過ごす。それが当たり前の日常で、常に胃のあたりがぎゅっと緊張しているのも前提。体が重いのも前提。周囲がどんな空気なのかを無意識によむのも日常。週末が終われば、また繰り返し走り回る。疑いもないけれども、時々ふと我にかえると一体いつ終わりがくるのだろうか、、、と不安が押し寄せ、それをまた次のスケジュールがかき消していく。

ただ、それが突然終わりをつげた。それが世界のすべてであるという固いフレームがゆらぎはじめたのだ。

高校一年生の時に、お付き合いのあったオーストラリア人の家族に、二か月のオーストラリア国内への旅行に誘われたのだ。進学校だったので、二か月もあけるとなると赤点覚悟。両親はさっさと承諾して、私を送り込んだ。二か月も。予想もつかない旅へ。

まだ格安航空券などを使って気軽に海外へ行く、というようなものでもなかった時代で全く想像ができないままカンタスの飛行機に乗り込んだ。フライトアテンダントはガタイの大きなオージーで、小さな子供に見える私に優しかった。なるようにしかならない。とくに緊張もせずに早朝パース空港に到着。到着ロビーに降りたつと、迎えにきているはずのオージーファミリーがいない。しかたなく近くのソファーに腰かけて待つこと一時間。いい加減次のアクションを起こさないといけない気持ちになり、公衆電話を目で探す。オーストラリアドルは札しかもっていなかったので、お店でなにかかってコインをえなければ、、、。(もしこなかったら、リターンチケットを購入することになるのかな。簡単に買えるのかな、、、。)案外冷静に席をたったとたん、向こうからドタバタとあごひげを蓄えた長身の男性と2人の子供たちがやってきた。

それが今回ともに旅するファミリーだとしると、安心と不安が同時にやってきた。なにしろ、私はこの知り合いのファミリーの長男しか知らなかったのだ。どうやら、迎えにくるための車が故障し、修理していたようなのだ。思い出してみれば随分ガタのきた車だったと思うが、迎えがきた安堵感と不安でそれについては気にならなかった。それよりも、小雨が降る中走り出した車の外の景色に体がしびれたようになったのだ。

雨のせいかまだ薄暗い空が、重そうな雲をたたえながら私の両側の視界よりもさらに向こうまで広がっていた。遠くで雷鳴がとどろき、稲妻がはしるが、それを受け止める大地もまた、同じくらい視界の外まで続いていた。圧倒された。私は今までこんなに広い景色の中に、身を置いたことがなかったのだ。

すべてが大きく、広がっていて、自分の境界線がよくわからなくなり、不思議な感覚だった。湿気をふくんだ少し生暖かい空気が私をふんわりと包み込んだ。すべてが私のこれまで意識していた枠より大きく、隙間があって、自然が人間よりも大きかった。近くのショッピングモールですら、歩いても歩いてもたどり着かないような感じなのだ。

旅をともにするファミリーは、40代夫婦と12歳、10歳、8歳、5歳の子供で構成されていて、みんなやせ型で背が高かった。食への関心はあまりなく、その理由は調理して出されるものが、極度においしくなかったからだと思う。朝はシリアル、昼は薄々のサンドイッチ、夜はソーセージを焼いたもの。私はおなかがすいてたまらなかったのだが、彼らはそれに慣れていて間食すらしているのを見かけなかった。一番下の子は朝4時前におき、夜は6時になると寝てしまう。他の子もそれぞれ好きな時間に寝て、あれをしなくてはいけない、これをしなくてはいけない、ということにしばられているように見えなかった

私はどうやって過ごしていいのかわからなかった。なににそって動けばよいのか、研ぎ澄ませてみても、誰も決まった形なんてなかったのだからわからず混乱した。日本の社会で役に立った感覚がゆらぎはじめ、戸惑う自分がいた。それをさらにへしおる旅が、数日中にはじまった。

旅は、ボロボロの中型バスの中を改造したもので、簡易キッチンと常設ベットがあり、夜には座席に板をひくと全員分のベットになる。そのバスに小さな荷台が一つ連結していて、オーストラリアでよくみかけるキャラバンカーのスタイルだった。エンジンは、かけるたびになんどもふかさなくてはいけなくて、止まってしまうと修理する、という繰り返しだ。思えばこの経験があったからこそ、その後いろいろな場所でいろんなスタイルの車をみかけるのだが、大して驚かなくなってしまった。

このキャラバンでオーストラリア国内を一周する1号線と真ん中を縦断するスチュワートハイウェイを走る。パースからまず南下し、その後東にむかって1号線を走る。その後、ポートオーガスタという街からダーウィンまで縦断し、キャサリンまでもどって西にいき、そのままパースまでもどってくるというコースだ。その途中、様々な町や都市、自然遺産等の観光地などにより、気に入ったら長く滞在する、という気ままな旅。2か月の間に海辺の景色から赤茶けた内陸、熱帯の国立公園のジャングルと景色が一新されていく。だが、出発したときには、そんな壮大な旅になるとはつゆほど思わず、なされるがまま、ちょこんとバスに座っているだけだった。

さすが大陸だけあって、スタートして何時間たっても景色が本当に変わらない。走っても走っても次の景色がやってこず、それがなぜか退屈しないのだ。退屈せずにずっとみていると、いつの間にか眠っているときもあるっていう話で、眠って起きても同じ景色が続いている。

最初のインパクトのある町はカルグーリという金鉱のある町だった。映画にでてくるようなドライな町の郊外に巨大な金の採掘場があった。採掘場の巨大な穴をおりていく大型トラックがとても小さく見えた。パースから南下し、大陸を横断しはじめると途端眠気がひどくなり、私はよく眠りにおちていた。成長期ということもあったかもしれないが、なんというか、今思うと大地のエネルギーにあてられていたのかもしれない。感覚がくるい、ぼーっとしていた。それと同時に、なにかに同調しはじめたのを感じていた。歩いていても、ご飯を食べていても、ネイチャートイレをしていても、絶えずおっかけてくるもの。存在をあらわにしてくるなにかを背後に感じていた。私は、パースで手に入れたひまわりのかわいらしいノートに日記といえるようなことを書いていたのだが、この街に入ってから感覚的にやってくるなにか、をとらえはじめた。やってきたものをとらえはじめたのか、前提となっていた社会のスケジュールがなくなり、指標とするものがなくなって、たががはずれた結果なのかもしれない。とにかく、日本の日常では感じないなにかを感じ始めたのだ。

巨大な採掘場をらせん型に降りていく大型トラックがおもちゃのようにみえる景色を目の前にして、私は遠近感を失っていった。何もない大地にこれを出現させるまでにどれほどの労力と歳月がかかっているのだろう。気が遠くなりそうだった。それに思いをはせてみようと近くの岩に腰を掛けた。ファミリーは気に入ったところがあったらとどまって好きなだけすごしてよいといってくれていたので、この際、じっくりと腰をすえて横断しはじめてから感じているなにか、の正体をさぐってみようとも思った。私がこれまでに感じたことのないなにか。ここにある金鉱や、乾燥した大地にぽつぽつと生えている草やその下の岩から発せられているなにか。大気に充満しているなにか。ここにあるすべては、あきらかに人間の社会の枠外にあるもので、すべての指標の外にあるものだった。腰をすえた途端、それら一つ一つが主張しはじめ、私はそれらをより鋭く感知しはじめたのだ。集中しながらも緩慢であり、とらえどころのないもの。それらに輪郭をあたえるために言語外に確かに存在するものを、言葉へとつむぎはじめたのだ。

それらは人間のもつ時間軸の外側にあり、姿をあらわしはじめるとこれまで人間が意味をもたせてきた常識的なあり方、歴史、善悪、意味のある生き方、生死までも無効化するほどインパクトのあるものだった。人間の歴史などけちらすようなこの圧倒的に太古からの、人間がなにをしても意味をなさない、なにもできない無機物の集合した景色。たとえ、私が、この景色の中でどのように命をおとしても、私じゃなくて世界中におしまれるような偉人が無意味にここで命を賭しても、たちどころに無効化するような包容力。感知するごとに、私の中のあらゆるものが風のように散っていくのを感じていた。

生まれてからこの方重ねてきた日常の前提。それらは親が伝え、教師が伝え、自ら学び、あらゆる人間関係やシチュエーションからとりこんだ「生きるため」のすべてが無効化され、形がはっきりしていた日本の社会が形をなくした。逃げ場のなかった家族や友人関係から生じた葛藤も形を失い、私は、私がこんな人間だ、と既定することができなくなっていった。進学校にいったが故に想定される社会的キャリアも意味をなさなくなり、体すら景色と境目があいまいになる。もはや私に属しているといい難く、その中で「私」と感じるものは、意識せずとも自然と思いのみがわきでてくる「私であるというなにか」のみだった。形をもたない「私であるというなにか」は物事をはかる上での指標として、この景色の中でもかろうじて機能しそうだった。

カルグーリでの出来事を皮切りに、あちこちの景色に呼応し私は内側からわきでるものをとらえていった。時間は、もはや1分60秒を刻む確実で平等なものではなくなり、未来予想もできず、過去から積み重ねたなにかもこの景色の前では役にたてることができず、一瞬一瞬にわきでる思いだけをすくいあげていくことしかできなくなった。それを、つたない言葉でつづっていった。圧倒的な景色の前では、人はどこを指標にしてよいのか迷い、焦点を失い、自分からわきでるものしか感知できなくなる。社会など外側によって規定してきた自分の内側にあるものが一切無効化し、体の感覚すらなくなり、かろうじて残る自分としてわきあがる感覚のみをのこし、みぐるみはがされていく。私たちは、人間の社会の内側にいるとき、自然は人間に属する景色としかとらえず、それらが発するものに目をむけることはない。時々つながったとしても、一時的な、気まぐれな、幻想としかとらえない。

だが、圧倒的な自然の前では、あらゆるものにしがみつくことすら許されない。すべてが無効化されてしまうのだ。どちらが、幻想なのか選ぶことすら幻想なのだと、思い知らされるのだ。

かくしてオーストラリア人の家族との二か月は、カルチャーショックなどは大した問題とも思わず、私は私の内側に残る「私」とともにあるしかなかった。いつも自然とむきあい続けるしかなく、思い出してみても、個人的な家族とのやりとりはうっすらとしか思い出せないのだ。内側に大変化が起きて終始ぼーっとしていたであろう日本の高校生との旅は、一体どんなだったのか。その場所を与えてくれた彼らがどんな気持ちだったのだろうか。申し訳ないが、いまだに想像力はわかないが、感謝のみである。




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