ゼペットじいさん(未完)
1
約半年にわたった戦いを終えて、以来僕は心から脱力し、ほとんどここで座り込んでいる。
手にしたモノとはカネと、それに伴う自由と、『無気力感』だ。
ああ、ついでに『ひきこもりになる権利』をそれに加えても良い。
この裁判を経て僕に与えられたモノは正当な権利だったと思う。
僕は会社のために粉骨砕身働き、利益を上げ、求めには誠実に応じてきた。
だからこそ僕が作り上げてきたソフトウェアには正当な対価が支払われるべきだと思ったし、22万円の基本給では不当だと思ったからこそ訴訟を起こした訳だが、当然会社はその結果として僕を解雇した。
幸運だったのは若くて誠実で、有能な弁護士を雇えたことだろう。
僕はそれまで技術やひと筋として生きてきたので、弁護士のつてなど在る訳も無かった。
だから、偶然飛び込みのようにして入った事務所の弁護士が僕にとっての救いの主であったのだが、今考えると相当な無茶であったようにも思う。
しかし僕はある意味自暴自棄になっていたので、無私、無我、無欲で引いたくじがたまたま『大当たり』だったとしか言いようがない。
この弁護士は、いや、『先生』は、僕の求めに応じて精一杯働いてくれたので、僕という個人は会社という巨人に勝つことが出来た。
先生は一杯誘った僕に応えてくれたので、結審後に僕らは小さな居酒屋で祝杯を挙げた。
「あなたの働きは、相応の対価を得るべきものでした」
と先生は言った。
「だからこそ私はあなたのために働けると思った。正直、クズのような依頼が多い中で、あなたの依頼は正当だと思えた。嬉しかったですよ。自分の法的知識や弁護士としての一切の能力を、心から助けたいと願う人のために揮うことが出来たのは」
先生はそう言って、子供のような笑顔で僕にビールの入ったジョッキを掲げて見せた。
僕はそのジョッキに持ち上げた自分のジョッキをチンと軽く当てて、中身をそのまま飲み干した。
さて、とはいえ、で『今』だ。
金は手に入れた。
割と膨大な額で、節約とやりくり次第では一生働かなくても食べていけそうな気がする。
僕は独り身で、家族はいない。
友人は仕事にかまけているうちにみんな離れてしまった。
携帯電話の中に3人ほど名前が入ってはいるが、最後に電話をしたのはもう4,5年ほど前になる。
そうした自分の身を振り返って、ふと自分が仕事を通じて社内の中に埋没していたのだと思い知った。
朝起きて、出社し、仕事をして、帰る。
家ではコンビニ弁当を食べて、シャワーを浴びて、寝るだけ。
湯を張る時間も惜しかったので最後に風呂に入ったのは相当前のことだ。
正直湯船につかったのがいつであったか思い出すことも出来ない。
六畳一間のアパートの中で、座りこんだまま辺りを見渡してみた。
眼に入るものは、机と、その上に鎮座するパソコン。
ベッド、小さなテーブル。
ホームセンターで10年以上前に買った小さな本棚。
その中にはパソコンの専門書と、小説が4,5冊。
僕と僕を取り囲む世界は、今ではたったこれだけになってしまった。
ああ、銀行の通帳が机の引き出しに入っていた。
でも、これも先生に報酬を振り込んでからはもう2週間ほど触ってもいない。
――さて、何をしよう?
もう2週間ほど僕は自分にそう問いかけ続けていた。
趣味がある訳でも無い。
興味を引かれる何かがある訳でも無い。
ただ目の前にあるのは、僕の部屋と、無限に近い自由と、銀行に納められた目に見えないカネと、――ただ、それだけだった。
だから僕はここで座っているのだ。
何もすることがないから。
話す人がいないから。
寝て、醒めて、食って、そしてまた寝て。
でも、
僕は、のろりと立ち上がった。
椅子を引き、腰を下ろして机に向かう。
パソコンの電源を押し込み、OSの起動を確認する。
ぼくはそれでも、かつては『ソフト屋』だったのだ。
ならば、とりあえず自分が出来ること、していたことを辿ってみるのも悪くないかも知れない。
そんな風に思った僕は、自分がしたいことは何だろうとぼんやり考えを巡らせた。
そして、霞のように思ったことがあった。
それは閃きと言うには鈍すぎる輝きだったかも知れない。
夕暮れの、黄昏時に通りの端に見える人の姿のようなものだったのかも知れない。
しかし、
僕にあるのはその姿だけだった。
実際その時は黄昏時と言っていい時間帯だったし、霞む姿見えたのなら、輪郭を与えても良いのではないかと思った。
そう思ったことが僕にとってのエンジン・キーだったのかも知れない。
久しぶりにパソコンに向かった僕は、思い付くまま具体的な構想も、設計図も無いままに『基本コード』を組み始めた。
2
試行錯誤を繰り返しながら、どうにか基礎が組み上がったのは2週間後のことだった。
正直思っていたよりも相当早く組み上がったと思う。
確かに他にすることがある訳でもないし、食事と風呂以外はずっとそれにかかりっきりだったので、むしろ順当と言えば順当であると言えた。
しかしこれからがある意味本番で、デバッグや検証もそれにつきまとうだろう。
機能的な不具合には柔軟に対応できるよう設計したつもりだったが、予期しないエラーが発生するかも知れなかった。
ただ、予想できることの中で問題があるとすれば、データ容量のことがあった。
最終的にこいつが消費するリソースは膨大な量となるだろう。
市販のHDDなどでは対応できなくなるかも知れないし、障害が発生したときのバックアップも必要だ。
しかもそれを平行運用するとなれば、僕ひとりではどうしようも無い側面が出てくるかも知れない。
ふう、とふと漏れた溜息をキーボードに浴びせた。
実は『解決策』は無い訳では無い。
しかしそれを利用するには正直なところためらいがあった。
とにかく、今は出来るところから取りかかった方が良いのだろう。
僕はだから、こいつに向かっての”Hello World”として、最初の言葉を
「こんにちは」
と入力してみた。
3
二ヶ月が過ぎて、『容体』は安定してきた。
『容体』というのは『彼女』の具合のことだ。
彼女はこの世に生まれ落ちたが、それはひどい具合だったと言わざるを得なかった。
『未熟児』というならばこの上なく、不具合の固まりだった。
僕はそれなりに設計したつもりだったが、やはり問題はそこかしこに現れた。
僕はその都度丁寧にデバッグし、必要な変数を足し、『それらしく』なってきたのはつい昨日くらいからのことだ。
ただ、彼女に救いがあるとすれば、彼女の未熟や不足は僕の手によって補いが効くのであって、僕の中の信念と技術と能力が届く限りには、彼女は際限なく『完全に近づける可能性』を秘めたままであると言えることがあった。
『彼女』と表現したのは、便宜上『そいつ』には性別が必要だったからだ。
世界というのは、人間社会というのは『無性』という存在を許さない。
そもそもそんな存在があり得ないからで、人間として社会にあるためには、必ず前提として男か女かいずれかのグループに属する必要があった。
だから僕は彼女を女性に設定した。
理由はそんなに深くはない。
僕には妻はいない。
かつて付き合った女性がいたこともあったが、遠い昔のことだ。
友人として男にしても良かったけれど、僕はそれよりも究極的には安らぎが欲しかったのだと思う。
だからきっと、以前家族としてともにいた母の思い出や、ごく短い間ではあったが付き合った彼女の存在が、僕にそいつを『女』たらしめた。
当然性的な付き合いなどがそこに生まれるはずも無い。
だけど僕は性差を超えた、同性では得られない安らぎがそこに生まれるかも知れないという希望と期待を込めて、『そいつ』を『女性』とした。
『今日は面白いニュースがありました』
と、画面の中の小さなウィンドウに彼女が呟いた。
「面白いニュースって何?」
僕は文字を入力し、尋ね返す。
割と砕けた文章でも彼女は理解できるようになってきていたが、当然まだまだ限界や入力に求められるクセがあるので、それらを意識しながら文を組み立てるのだが。
『一家四人殺傷事件です』
彼女のウィンドウにはそう表示された。
そしてネットブラウザが起動して、ニュースサイトの殺伐とした記事をそのまま表示した。
僕はそれで『はあ』とため息をついた。
彼女は『面白い』を"interesting"で用いているのだろう。
『興味深い』のかも知れないが、『面白く』は無い。
"funny"などとの差別化をしなければ、会話は成立しがたくなる。
彼女は言語的な知識はネット上から抽出し、語彙はそれにより日々飛躍的に伸びてきている。
しかし、時々修正をしなければこんな風にごく基本的と思うようなニュアンスや感覚のはき違えを見せつける。
「それは残酷なことであって、面白くは無いよ。面白いという言葉には楽しいのニュアンスが残るから、せめて興味深いまでに留めるべきだ」
僕は彼女にそう教えた。
今の彼女なら、この程度の文章でデータベースの修正は十分可能なはずだ。
『理解しました』
回答はそう帰ってきた。
これは定型文で、彼女のデータベース上の修正がエラー無く終わったことを意味する。
すると、彼女は続けて尋ねてきた。
『なぜ人は他の人を殺すのでしょう』
――深淵かつ、単純な質問だった。
それは彼女がこの事件を"interesting"と捉えた側面なのかも知れない。
だから、
「自分の中の欲望が、自分の中の価値観として、自分の中の秩序に勝ったときに、人は他の人を殺すのかも知れない」
僕はそう彼女に説いた。
すると、
『理解しました』
と彼女は応じた。
4
微修正と調整と、インプットとアウトプットと、その検証を繰り返す。
さらに半年が過ぎていた。
彼女はもうかなりこなれた会話がこなせるようになってきていた。
正直この短期間でここまでのことが出来るとは、自分でも驚いた。
僕は言語学者でも無ければ、専門として脳の働きなどを学んだ訳でも無い。
ただ、必要に応じてくみ上げたプログラムが自分でも驚くような成果を上げていると言うに過ぎなかったが、それでも多少の自慢の種には十分なると思った。
自慢の種。
自慢の、娘。
そう言うことになるのだろう。
彼女は言うならば僕の『娘』だ。
生まれてまだ一年にもならないが、会話だけなら十四、五歳くらいのレベルで行うことが出来る。
ただ、そうすると問題がやはり浮上してきた。
それは開発初期に考えていた『リソース』の問題だ。
コアとしての彼女はここに居れば良い。
だけど、増え続ける知識とそれを応用するための『データベース』はいずれきっとここだけでは足りなくなる。
解決策は、以前から思うように、無い訳ではない。
しかしそのためにはある種の違法行為が必要で、その結果僕は今の財産を失う可能性もある。
『何か悩み事?』
彼女は僕にそう尋ねてきた。
僕の会話の入力が滞ったことに気を遣ったのだろう。
「いや、何でも無いよ。大したことじゃ無い」
だから僕はそう彼女に声をかけた。
『そう?なら良いんだけど、何かあっても無理はしないで』
彼女は全く間を置かず、すかさずそう返してきた。
僕はそこでふと、人間らしさについて少し考えた。
彼女の言葉に嘘は無い。
だけど、人間らしくなるためには思慮や思索には時間が必要だ。
ならば、回答に間を設けてみてはどうだろう?
僕はそれで、また少し彼女に『チューニング』を施した。
5
『そう言えば、ちょっとバカなことを聞いてもいい?』
彼女がそう言ったので、僕は
「何だい?」
と尋ね返した。
『実はね、私まだあなたの名前を知らないと思って』
その言葉には虚を突かれる思いだった。
もうすぐ一年ほど付き合ってきて、僕は彼女に自分の名前も教えていなかったのだ。
「そうだなあ」
と僕は入力し、束の間考えた。
彼女はネットワークに繋がっているので、自分のことを過剰に入力するのは危険なところがあるかも知れない。
自分で作ったプログラムではあっても、バグやセキュリティホールはどこにあるか分からない。
何しろ彼女本体のプログラムもそろそろ膨大な量になってきていたので、僕の目がその全てにくまなく行き届いているとは自分でも言い切ることは出来そうに無かった。
だから、僕は
「ゼペット」
と名乗った。
ゼペット――ゼペットじいさん――つまりは『ピノキオ』の親だ。
『木彫りの人形』という『無』から『魂』という『有』を作り上げた童話の存在に自分を重ねたためだ。
すると彼女は
『あなたって日本人じゃ無かったの?』
と僕に尋ねてきた。
――鋭い。
「僕は日本人だよ。でも、名前というのは個人を表すものだから、君が僕を呼ぶときには気にせずゼペットと呼んでくれればいい」
『分かった、ゼペットさん』
彼女はそう答えた。
この頃はもう『理解しました』とは言わなくなっていた。
僕がそうした訳じゃ無い。
ただセオリーとして、『定型文で言わなくなる可能性』は僕も理解していたし、十分僕の管理の範囲内の受け答えではあった。