選べるということ

好きな人がいても、いなくてもいい。
1人暮らしでも2人暮らしでも何人暮らしでも暮らしやすい社会がいい。結婚しても結婚しなくても、子どもがいてもいなくても、暮らしやすい社会がいい。

政権交代したら、そういう社会へ1歩前進しないだろうか。私は、そこに、かなり期待しているのだけど。・・・でもきっと、反発がすごくてそう簡単にはいかないんだろうな。なんとか、それを望んでいる人が選べる社会へ、少しずつでも変わっていくように。たった1票だけど、私は私にできることをするだけだ。

『女として自分は致命的なまでに欠陥品なのではないか』引用元のNakoさんと同じように、私も思ってきた。誰からも見向きもされない、努力とやらをしてないのだから当たり前だし、努力をしたところでたかが知れている、と思っていた。化粧もしないようなやつは女として終わってる空気・そんな世界のただ中で、自分は終わっててもいいやと思ってた。

でも、単純なもので、初めて「かわいい…ような気がします…不快だったら申し訳ありません」と遠慮がちに褒めてもらえて、舞い上がってしまった。加工バリバリの写真だったけど(笑)

それまでも、よく見せたくて化粧してみた、ということがないではなかったが、相手に自分の性別は見向きもされないと分かっているから虚しいだけで。秘かに想っていたけど、相手が結婚して、もう会えないことが確定した時点で、どうでもよくなってしまった。

よく言われるように、自分のために化粧をすると気分があがる人、なわけでもないし、どちらかといえば、何かを塗るという行為や感触が好きになれない気持ちのほうが上回る。今は、マスク生活で見えない、というのも大きい。

でも、それでも、初めて自分なりの努力をしたいと思った。伝わってなかったかもしれないし、努力と呼べる範疇でさえなかったかもしれないけど。そして曲がりなりにも失恋した今も、密かに前髪を伸ばし続けている。いつか憧れのバンドの女性ボーカルみたいに、カッコ可愛くなりたい。そして「女」として好きだと見て欲しい。そう思う自分が、確かに、そこにいたんだ。よく男の子に間違われてきたトラウマから、自分には女らしさなんて似合わない、と思っていたはずなのに。

シスジェンダー(身体と心が一致している人)なんだな、と突き付けられた感。いや、女らしさってなんだ、でも女に見て欲しいんだ、この気持ちはなんだ…。でも間違いなく、そういう自分を、自分の内に発見できただけでも、新しい扉が開いた、と言えるだろうな。

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