ゲシュタルトの祈り

ちょうど6年前の本日、Facebookにポストしたものが出てきたので、場所を変えて掲載いたします。

つい先日も、以下について友人にシェアしたところだったのです。

以下、過去のポストより引用。

折に触れて思い出す、Frederick Perlsの「ゲシュタルトの祈り」

原文が英文・独文で、オフィシャルな和訳は存在しないので拙訳(一部は意訳)です。
(最後の一文は英独で随分と解釈が分かれるのですが、独語版の意味に寄せています。)

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Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du –
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.

I do my thing, and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful.
If not, it can’t be helped.

私は私の人生を、あなたはあなたの人生を生きている。
私は、あなたの期待に応えるためにこの世に存在しているわけではない。
そして、あなたも私の期待に沿うためにこの世に存在しているわけではない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素晴らしいこと。
たとえ袖触れ合えずとも、それもまた、よきこと。
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…と、もう随分長いこと、このような心持ちで生きています。

私のような人間にとっては生存して在ること自体が大層なことでして、
誰かのために生きられるほど、人間が出来ていない(その、誰かのため というのも、結局は大抵 自分のため なのですが)。

かつ、自身が、そして他者が生存していることの途方も無さ、有り難さ(impossibility)を鑑みれば、
社会や世界に過大な期待を寄せず、なるべくあるがままを受容せざるを得ないじゃあないですか。

そうすると、随分と心穏やかになれるように思います。
こうした感覚は、あらゆる芸術が、本来、受容者・消費者の存在なくして自立的に存在できる という状態に近似しているかもしれない。

麻痺させるのでもなく、諦念を抱くのでもなく、
自他がこのように、そのように在る ことを変えられはしない、そしてそれが善でも悪ではないと思えますように。


上記が、8年前、20代後半だった頃の私の感想。

このゲシュタルトの祈りは、その後も変わらず、私にとってお守りのような機能を果たしていて、
人との出会いと別れに思いを馳せる度、心の穏やかさを取り戻す一助となっています。

ある時は相手の前途を祝して、ある時は離別を受け容れるために、ある時は、最早結ばれようのない人に向けて、こっそり心の中で愛を込めて手向けるようなイメージ。

無為自然 という概念に近いかもしれません。

しかし、私が私を生きるという覚悟を持つことを促してくれるという点ではとても力強く、能動性と自主性を高めてくれる。

それでいて穏やかで美しく、柔らかな言葉たち。

人生はいつも不条理に満ちていて、ままならないことばかりですが、
いつか、その「ままならなさ」も愛でられますように。

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