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五輪に反対でもぼくは選手を応援するし感動もするという意志の表明と、五輪とその周辺の問題にたいする自分の感情の備忘録。

先日、東京五輪への反対の立場を表明している政治家が投稿した、五輪出場選手への祝福ツイートが炎上した。「お見事なダブルスタンダード」なのだそうだ。

立場が違いすぎて比較にもならないけれど、ぼくも反対の立場を表明して選手を祝福したら炎上するのだろうか。
今でも、東京五輪は中止するべきだと思っている。
でも、毎日TV観戦はしているし、声援も送れば感動もしている。
矛盾しているだろうか。ぼくにはそれのいったい何が悪いのかわからないけれど。
五輪開催に際し、たくさん考えたし、葛藤した。
その結果としての、自分のスタンスだ。


ここでは五輪への賛成反対等の議論を戦わせたいわけではありませんので、そのスタンスでのコメントはご遠慮ください。また、五輪開催に賛成の方を否定するものでもありません。これは感染の危険性の高いと思われるエリア(渋谷区、目黒区、品川区、港区)が生活圏の一般人のいち考えだと思っていただければ幸いです。
なお、このnoteは100%自分の思考の整理と今抱いている感情の備忘のために書いたものです。なので、その点ご理解いただければと思います。
1ヶ月ぶりに書いたnoteがこれ、というのは、なんとなく残念なような悲しいような。またポエムを載せたいなぁ。


開会式を観て、素直に感動した。
この状況下で、世界各国から集まってくれた選手たち。華やかに入場する姿を見て胸が熱くなった。無事に競技を終えて、無事に帰ってほしいと思った。この五輪が、一生の思い出になってくれればいいと思った。
選手が流す涙は、その理由にかかわらず美しいと思った。

開会式をめぐるドタバタについて、信頼できる(と思っている)メディアや個人のシェア、見解。それらを取捨選択して、自分なりに調べた。
twitterに撒き散らされている汚い言葉たちをかいくぐりながら、感情的にならないように、知識を仕入れていった。


各国の選手たちの頑張りを、TVやネットを通じて観ている。
選手の奮闘、讃え合う姿。
ひとえに、美しいと思う。
この舞台のために、これまでの人生はあった。そんな意気込みで競技に臨む選手たちの表情は、こころを掴んで離さない。
できるなら、納得のいく結果をみんなに持ち帰ってもらいたい。そんな気持ちで、画面に食いついている。

たしかにぼくは、こうして感動を「味わわせてもらっている」。
望まない自粛生活、経済的な困窮、先の見えない不安。膨らんだ開催費用は都民が負担するのか。対価は十分すぎるくらい払っている(と思う)。ただ、この対価は強制的な分割払いだった。納得をして支払ったものではなかった。
明確な数字を示してもらったことは、(ぼくの知る限り)一度たりともなかった。結論ありきで、出た数字に後から間に合わせの理由がついてくる。それが、まかり通る。軽んじられている。舐められている。なんだか腐った臭いがする。


五輪開催の意義を、自分なりに探してみた。
経済のため。ウイルスに打ち勝った姿を世界に示すため。
混迷する日常に、希望の光を届けるため。
いや、違うだろう。
見つけたかった。自分を納得させるために。
でも、残念ながら見つからなかった。
「この感染状況なら」「こんなに東京が湧いているのなら」「こんなにみんなが協力的なのだから」。
それも、願った。
自粛の要請にも十分協力したし、今も協力している。
飲食業の短縮営業要請、酒類提供中止要請も、完全に守ったし、今も守っている。
なのに。

安全に、安心して、夢と、希望を。
これはいったいどういうことだろう。

大切な言葉さえ、毀損されてしまった。


好きだなぁと、誇らしいと思っていた自分の国を、都市を、今はどこか、恥ずかしいとさえ感じるようになった気がしている。


これらは全部ほんとうのことだ。
さあ、ぼくは怒っている。
そうして、怒りを向けていい対象を、探そうとしている。
さあ、吠えよう。


…なんて、するつもりはないけれど。
SNSで汚い言葉を吐き続ける残念な人たちの仲間入りはしない。
怒りの力は正しい方向へ、正しい方法で。


路上飲みをやめない若い世代に怒りの矛先を向ければいいのか。
路上飲みが溢れた理由を探すことが先ではないのか(明確だ)。
酒が悪者である明確な理由を示してほしい(これは不明確だ)。
悪いのは酒ではなく、酒に飲まれて自制心を失うこころの弱い人間だ。けれど、酒を飲む理由が「酔いたいから」であったとして、それを責める権利がだれにあるのだろう(マナーやエチケットの悪さは責められるべきだとは思う)。

五輪は、お偉方の私利私欲にまみれた汚らわしいものなのか。
五輪は、「選手がもう来ちゃったから」止めることができないのだろうか。
感動は、偽物なのか。
感動の対価は、適切なのか。
感動に対価は、そもそも必要なのか。

周りではなくて、ちゃんと自分と向き合って考えよう。


過去の言動が一生掘り起こされ続けることについて、考えてみよう。
人の不祥事や不幸に歓喜する残念な人の輪に、決して入らないようにしよう。
勇気を出して上げられた声(選手でも、ほかの人でも)に、耳を傾けよう(でも、感情で判断しないようにしよう)。

情報を、できる範囲でいいから精査しよう。
納得がいかないなら、状況を変えるためにできることに関心を寄せてみよう。
政治についても興味をもってみよう。
選挙にも行こう。

うがいと手洗いを徹底して、自分と、大切な人たちを、言葉の価値を、守ろう。


そうやって、怒りをこれからのための力に変えよう。
怒るのは力がいる。
だから、それを今後に活用することができたらきっと、棄損された言葉も壊された日常も、すっかり取り戻して、もっと良くなって、笑っている。


感動も失望も怒りも喜びも、全部ほんとうだ。

だから、何に対して怒りを覚え、何を観て感動し、何を見て恥ずかしいと思うのか。
何に、希望を見出すのか。
それを、ちゃんと覚えておく。
美しい顔と醜い顔を、しっかり区別できるようにしておく。

そんなことを積み重ねて、自分を信じる。

なんて、そもそも当たりまえのことを、あらためて日々学んでいる気がしている。


さあ、どの国の選手も、今日もガンバレ。明日もガンバレ。
悔いのないように、ケガのないように。
この大会をこころから祝福できないことが、申し訳ないけれど。
TVの前で、応援しています。






いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。