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「だいすけべ」と、呼ばれて。

皆さんはもうご存知かもしれませんが、ぼくの名前は「だいすけ」といいます。

だいすけ。
いい名前ですね。よく言われます。ありがとうございます。ぼくもそう思います、今は。
ぼくが自分のこの名前をほんとうに好きになれたのは、だいぶいい大人になってから。なぜって、この名前を持つ者には避けて通れない宿命があるから。背負わなければならない運命が、あるから。
それは、

だいすけべ

という、あだ名。

これは、
ぼくらの、宿命。
抗うべき、運命。



大祐、大助、大輔、大介。
ほか。
たくさんの字がある「だいすけ」だけれども、おそらくはほとんどすべてのだいすけさんが「だいすけべ」の脅威にさらされたはずだ。
「大」は文字通りサイズや程度が大きいことを表すから、(たとえそうじゃなくても)弁解のしようがない。書かなくてもわかる。「すけべ」の前に「大」がついたら、それはもう「VERY」の意味である。

マイネームイズベリースケベ。

ぼくはこの名前が、嫌いだった。



以前書いたけれど、ぼくの「だいすけ」はべつにだれかや何かにあやかってつけられた名前ではない。
帝王切開で産まれ、出てきてビックリ4,500グラム(しかもお医者さんからは女のコだと言われていたらしい)。
そして、面食らい過ぎた母が思わずつけた名前が「だいすけ」だった。

たぶん中学生の、早い時期だった。
教室で、クラスメイトに突然「だいすけべ~!」と呼ばれた。一瞬よくわからなくて、周りを見渡してみた。で、察した。今思い返しても寒気がする、嘲りを含んだ笑みと恥じらいと憐れみを浮かべた顔たちの真ん中で、認定された。
ぼくは、とってもすけべであることを。

そのときの気持ちは、鮮明に憶えている。
「ああこれは、ずっと付き合っていくんだなぁ」
そう思った。
ズシリと思たい鎖をクラスメイトによってこころに絡みつけられたような、一生背負っていく罪を彼らによって提示されたような、そんな感覚だった。

「うるせー!」とかなんとか、言ったと思う。でも、こういうのって言えば言うほど相手は面白がるもの。
あれは何の儀式だったのだろう、ぼくには何の覚悟もなかったのに。
貼られたレッテルをぼくは、このときからずっと、自分のアイデンティティの片隅に置いていた気がする。これは大げさでも何でもなくて。

もちろん、今思えば返し方なんていくらでもあった。開き直ったってよかった。「だいすけべだぞ~」なんて変態気味に振る舞ってもよかったかも?それはちがうかなあ。
いずれにしても、それからしばらくぼくは「だいすけべ」と呼ばれた。勉強もできたし大柄だったからか、いじめに遭うことはなかった(このこともべつにいじめだとは思っていない)。それでもやっぱり、これはつらかった。
想像してみて。
名前って、自分そのもの。
それを否定されたり変なふうにいじられたりして、うれしい人なんていないと思う。
クラスメイトだってきっと、軽い気持ちで言ってみただけ。それでも、そんな悪意の形すらしていないものに、いじめに遭ったことのないぼくでさえ苦しんだ(飛躍するから書かないけれど、いじめとか暴力とかってきっとこんな比じゃないんだ)。

マイネームイズベリースケベ。

それからずっと、自己紹介や初対面の挨拶が苦痛だった。とにかく自分の名前を言いたくなかった。「あ、だいすけべ...」なんてだれかに思われたと思ってしまったらもう無理。ネタにもなるし、今さら恨んでもいないけどね、クラスメイト。とんでもないものを背負わせてくれたものだと、そのときは思っていた。
とっても、重たかった。



程度の差こそあれ、世のだいすけさんたちが避けて通れないこの宿命「だいすけべ」。いい大人になった今こんなことで凹んでいられないし、いい加減もう慣れた。何ならすけべであることも認めるし。
あのときは苦痛だったから、すけべの意味や由来を調べたりもした。いろいろ書いてあった。「好き兵衛」が転じただとか、今の意味そのもの、好色だとか。

でも。
今となってはもう、そんなことどうでもよろしい。

あのときはっきりと、やめてくれと言えていたら。
もうすこしだけ、勇気を出すことができていたら。

自分で環境を変える努力を、もっとしていたら。

それはちょっと、後悔している。

それを踏まえてぼくは、ぼくのあとにつづく若いだいすけ君たちに言いたいことがある。


ぼくのあとにつづくだいすけ君たちへ。
きみたちがもしある日突然こんな理不尽と対峙したとき、憶えておいてほしい大切なことがふたつある。
ひとつ、いやなことはいやだと言おう。
その場で言うのが難しい場合もあると思う。それならあとで信頼できる人に言ってもいい。力になってくれる人に、ちゃんと頼ろう。これは、チクリでも何でもない。
もうひとつは、自分がされていやなことは、人にもしないということ。
自分の名前を好きになれない時間なんて、一瞬たりとも味わう価値はない。
きみはもう、それを知ってるよね。だったら、なおさらだ。


がんばれ、ぼくら。
がんばれ、だいすけ。




こちらの企画に参加しました。

リライト元のnoteはこちらです。あまり変わってないけど...。

ここからが本題。このnoteまだ半分です、ごめんなさい。
今日、こんな記事を目にしました。

友達を呼ぶときは「さん付け」で 学校「あだ名」禁止の動きに賛否
先に書いておきますが、ここでは賛成、反対の「どちら側」は示しません。

ぼくが小学生だったころは、なんてそんなこと言うともうほとんど老害なのかもしれないけれど、これにはちょっと驚いた。「〇〇君」「○○さん」なんて友だちのこと、呼んだことなかったから(「○○君」もダメって書いてあるのもあった)。

ツイートにも書いたけれど、問題なのは呼ばれた方がそれを受け容れるかどうかであって、あだ名で呼ぶことそれ自体ではないと思う。たとえば容姿にかかわることとか、いじめや差別、蔑視につながる(と思われる)ものは親や学校の指導として対策すべきだと思う。いじめの根っこを取り去ることにもつながると思う。
でもね、痛みって、与えてしまったり、味わったりしてみないとわからないことだってあるんじゃないかなって思うんだ(1ミリも誤解を招きたくないから書いておくけど、傷つけても/傷ついてもいい存在の人がいるって言ってるわけじゃない)。言葉で人を殺せる、それは確かだからもう一度言うけど、誤解してほしくない。ちゃんと子どものころに深い傷にならない程度の失敗をしておくことや、されていやなことを経験しておくことも大切なんじゃないかということ。修復ができる程度の、大人(保護者、学校、地域)の管理監督で見守ることのできる範囲のもの。そういうところでちゃんと、傷つく/つけられる(≒人の痛みをわかる)練習をしておくこと。学校の役割ってむしろ、ここなんじゃないかなって。
それを、そういう「恐れがあるから」画一的に禁止ですなんて、安直すぎはしないか。大切なことを、放棄してはいないか。そう思わざるを得ない。
「ブタゴリラ」や「すいか頭」を是とせよとは、今どきだからさすがに思わない。思わないけれど、ダメですよの前にできることが、まだある気がしてならない。
「だいすけべ」と呼ばれて、確かにつらかった。
それでも。
クラスメイトに感謝なんてしないけど、おかげで大切なことに気づけた部分もある(重ねて言う、こころない言動を肯定するわけではない)。
このあだ名はOK、これはNG。明確に引ける線などないこと、わかっている。それでもそこに知恵を出し合うのが大人であって(出し合った結果こうなのもわかっているけど、でも)、明確な線がないからこそ議論の余地もあるのであって。
何だかなぁ、寂しいなぁ。


屁理屈かもしれないけど、ちょっと聞いてほしい。
「あだ名」の意味を調べた。

あだ‐な【×渾名/×綽名】
《「あだ」は他・異の意》本名とは別に、その人の容姿や性質などの特徴から、他人がつける名。ニックネーム。あざな。
出典:デジタル大辞泉(goo辞書より)

あだ名は「その人の容姿や性質などの特徴から」つけるから、問題になるんじゃなかろうか。それで、思った。ぼくが失くしたくないなと思うのは、あだ名じゃなくてこれなのかもしれないと。

あい‐しょう【愛称】
親しみを込めてよぶ呼び名。ニックネーム。ペットネーム。
出典:同上

そう、ここなんだ。「親しみを込めて」。加えて、呼ばれる方がそれを快く受け容れていることが必須だけど。

だから、「あだ名」禁止はやむを得ないとしても、かわりに「愛称」(という呼称)をつかいませんか。安直かよ!って思われるかもしれない。でも、考え方の根本を変える、有効な手立てだと思うんです。

「だいすけべ」はあだ名。
「だいすけっち」とか「だいちゃん」は愛称。

「親しみを込めて」、を忘れずに。
呼び方/呼ばれ方は、名前/存在というものの大切さ重さを知ること。そこに込められた親しみを感じられるとき、自分のことを、ひいては他者のことをも大切に思える、尊重することができるはず。それってとても、素晴らしいことだと思いませんか。

ぼくは、そんなふうに思うのです。



深夜の勢いで書きました。でも、まともに考えました。
いろんな議論があります。
大変だけど、一つひとつ、すこしずつ。投げやりにならずなあなあにならず、自分のできる範囲のことをして、表明できる範囲のことを適切な言葉で表現して。そうやって積み上げていけたら、話すこと、コミュニケーションを図ることの意義はより大きくなるはずだ。
まさか就寝前に4,000字書くと思わなかったけど、今日書けてよかった。

今日はこんなことを、考えていました。
お付き合いありがとうございました。
もういい加減朝だから、そろそろ寝ようと思います。
それでは、おやすみなさい。





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