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エイジズムと「のびしろ」

「のびしろ」って何なんでしょうね。最近そんなことを思いました。辞書的な意味としては、「成長する余地」くらいなんでしょうね。だから、「のびしろがある」というふうに表現する時にそのフレーズが示す意味は、「成長する余地がある」くらいになるんでしょうか。そう考えてくると、「成長」って何なんだろうなと考えさせられます。

例えば、芋虫は成長すると蛹になり、さらに成長すると蝶とかになったりします。成長。謎です。

あるいはもっと比喩的にこの「成長」という言葉を捉えることもできるのかもしれません。

例えば、何かを学ぶことを成長と呼ぶこともあるでしょう。この「学ぶ」と言うのは何も学校の勉強に限らなくて、私たちは常に様々なものを現に学んでいますね。人とのコミュニケーションの仕方とか、謝り方、あるいは何かのお願いの仕方、そうした様々な処世術も当然学習の対象にはなってくると思います。人というのは意識的にも無意識的にも、日々様々なものを学んで暮らしていますね。そうした意味ではみんな「成長」していきます。つまりみんな「のびしろしかない」(笑) そのように言える余地もたくさんあるのだろうな、とも感じます。

若い時の処世術と大人に成長してからの処世術もまた違ってくるのでしょうね。色々な事情が変わってくる。私とかはどちらかと言うと多分、いつまでもいつまでも無駄に反骨精神の塊で構成されている種類の強情な人間かもしれませんが(笑) ただ一方で、ある意味性格が丸くなってくるような、そのように「円熟」してくる人達も世の中にはいらしゃって、そういう人達もそれはそれで立派なんだろうな、と思います。何と言ってもすごいのは、円熟した人たちの「頭の柔らかさ」ですね。そういう処世的な柔軟性。多分、人生を生き抜くためにはすごく役に立つと思います。我を通すのも時に大切なことなのですが、かと言って常にそれをしようとするとそれはそれで疲れてしまうこともあるかもしれません。そういう時には、とりあえず柔軟性を発揮して色々なことに自分が積極的に合わせて対応していくというのも一つの選択肢ではあると思います。「柔能く剛を制す」ですね。世の中では、柔らかいものが強剛なものを上回ることがよくあります。

普通、「歳を取る」と言うと、老いていくというイメージから負の印象を伴っている場合も多いと思うのですが、そうした「老い」というものをポジティブに捉えてみようとする試みもまた大切なことなのでしょうね。

基本的には、人はみんな老いるものですので歳を重ねるということをいい意味に捉えつつ、私たちそれぞれの「のびしろ」を人生において上手く活かしていくということが大切な場面もすごく多いと思いますね。

みなさんがそれぞれの「のびしろ」をそれぞれに最高のレベルにまで昇華していけますように。祈ります。



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