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社会学的に最適なインドア派という生き方①

 インドア派こそ、現代社会において最適化された生き方である。出費は抑えつつ、可処分時間のQOLをあげることが容易である。また、最近では自室にこもりながら価値のあるものを生み出すことが出来るようになっている。割とネガティブな文脈で語られがちなインドア派は、自分たちのプレミア度を過小評価せず、これからもインドアライフを満喫していこう!


 まず、現代社会は言うなれば「金くれ地獄」である。なにをするにも金がかかる。読者の皆様方においては、このことを肝に銘じて欲しい。例えば髪を切るにも美容院代がかかる、よそ行きの服を買うにも金がかかる。金、金、金である。

ところで、日本における理容院、床屋でネット検索してみた。日本最古を自負する店がいくつか見つかったが、その真偽はともかく、重要なことは、これらはいずれも明治時代後期に出現したということだ。つまり、いわゆる日本の近代化が進んだ時期と平仄を合わせるように、こうした金がかかる施設が出来たのだ。

産業革命が進む中、それまで家族が果たしていた食料生産、商品生産等の様々な機能は解体された。結果として家族は、男性が賃金労働者となり、女性は家事労働者となるという歪な構造に変容した。やっと現代になってこの歪さに気づかれ、家事労働者にならない女性も増えてきている。

これ自体は喜ばしいことだが、その反面家事労働の外注が進展した。整髪にしても服飾にしても、金を支払って外注業者にやってもらうという時代だ。

現代人は、身近な人に美容師がいなければ死ぬまで美容院や洋服屋等に金を払い続けないといけないというカルマを背負わされている。ではこのカルマに抗うにはどうすればいいのか?それは金を払うペースを落とすことである。例えば美容院に行くのも2か月に一回にする等して、意識的に金を払うペースを落とすことだ。

もっとも、そうは言っても職場や学校、あるいは遊びに行くには身なりを整える必要があるとの反論はあるだろう。これ自体は最もな反論だ。だが考えてみてほしい。これらはいずれも外部の他者との交流をする上で生まれる必要性だ。

「いや、これは俺個人がオシャレしたいからだ。」と個人的な理由であると主張するかもしれないが、そもそもオシャレは相対的な指標だ。例えば、Aさんはブランド物の服を着飾ることが出来ているが、Bさんは全く出来ていないから。この場合、Aさんはオシャレで、Bさんはダサいという評価が下される。要は、オシャレは自分一人では発生せず、比較対象となる相手がいて初めて発生する概念である。

今までの話をまとめると、社会の変化と共に家内労働の外注が進み、さらに整髪や服装等の外見においては他者とのオシャレレースに巻き込むことで金を払うペースをあげる、これが現代の構造である。それらを踏まえるとインドア派の強みが際立ってくる。

彼らはあまり外出して他者、中でも特に外見をよくしなければならないとの強迫観念を与えてくる他者とはあまり交流しない。その結果、他者と交流する上で使うことになる出費を抑えることが出来る。

雑誌モデルがする髪型をしなくて良い、高い服を買わなくてよい、ファミレスやコンビニ飯で済ましても問題ない、デート代を負担しなくてよい、SNSにアップするために旅行行かなくて良い…いいことづくめである。

まさにインドア派こそ、「金くれ地獄」で生き抜くための救命ボートである。だからこそ大量消費社会にとって革命軍であり、世の中の広告にはインドア派はイケてなくてダサい、アウトドア派はかっこよくて充実している、だからみんなはダサいのから抜け出してイケてる人間になろう、というものが溢れている。

なにもアウトドア派を否定するつもりは毛頭ないが、インドア派の諸君はなにもわざわざ焦ってアウトドア派になろうとしなくてもいいのである。あまり広告を真に受けすぎてはいけない。


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