二世皇帝はなぜ殺されたのか

はじめに

司馬遷『史記』は、古来広く読まれ、日本語にも多くの故事成語が取られたことで有名です。最近は『キングダム』で知られる秦の始皇帝も、基本的には『史記』の伝える情報が基礎になっています。

その始皇帝は、「皇帝」という称号を定めた際に

朕を始皇帝とし、後継者は代数を数えて二世、三世とし、万世にいたるまで限りなく伝えよ。(朕為始皇帝、後世以計數、二世三世至于萬世、傳之無窮。)

と述べました。これも『史記』(秦始皇本紀)の伝えるところです。

しかし、始皇帝の跡継ぎ・胡亥(二世皇帝)は治世三年ほどで暗殺されてしまいました。当時秦の苛政に対しては各地で反乱が続発していたため、胡亥の後継に推された子嬰は「三世皇帝」ではなく秦王を名乗りましたが、間もなく劉邦(のちの漢の高祖)に降伏し、秦は帝国・王国のどちらとしても滅亡することになりました。

本記事では、胡亥の死亡に関する『史記』の描写について、背景や意味を考えてみます。

(1)「望夷宮の変」

『史記』の中で、胡亥の死去に関する記述は、秦始皇本紀・李斯伝の二箇所にあります。李斯は始皇帝の代からの宰相で、胡亥のときに趙高の謀略より失脚、刑死した人物ですが、なぜか列伝には子嬰の降伏(=李斯死後)まで書いてあります。

胡亥の死去については、秦始皇本紀・李斯伝のそれぞれで書き方が少し違います。望夷宮と呼ばれる宮殿にいたところ、権力者・趙高の差し金によって衛兵が反乱して自殺を強要された、という大筋は同じなのですが、李斯伝ではそっけなく、秦始皇本紀ではより劇的な描写になっています。(事実関係の細部にも差異がありますが、ここでは踏み込みません。)

秦始皇本紀に基づく胡亥暗殺(厳密には、自殺の強要)について、大まかな説明は日本語版Wikipedia「望夷宮の変」(2020年11月27日 (金) 23:22‎ 更新)にあります。中国語版の重訳のようです。

これによれば、胡亥のために戦おうとする側近が残っていなかったこと、地位を捨ててまで命乞いをしながら自殺を余儀なくされたこと、など、「惨めな君主」であったことが強調されています。

目につくのは次のようなやり取りです。

二世皇帝はそば仕えの宦官(または役人)を呼び寄せて「あなたたちは、なぜもっと早く、私に(このような情勢を)伝えなかったのか。そのせいでこんなことになってしまった」といった。宦官は「わたくしは敢えて言わなかったために生きながらえることができたのです。もし、実態を伝えていたら、誅殺されて、どうして今まで生きていられたでしょうか」と言った。(二世入内、謂曰、「公何不蚤告我、乃至於此。」宦者曰「臣不敢言、故得全。使臣蚤言、皆已誅、安得至今。」)

背景として、
・当時、宦官の趙高が実権を握っていたこと(皇帝を挿げ替えるくらい)
・趙高にとって不都合な事実は封殺されていたこと
・二世皇帝の側近官はほぼ趙高の影響下にあったこと
などを補足すれば、胡亥の悲惨さは一層際立つでしょう。

結局、胡亥は反乱兵を率いていた閻楽に命乞いをするのですが、懇願は一切受け付けない、といって撥ね付けられ、自決を余儀なくされます。

ちなみに、李斯が刑死したのは趙高との対立によるものです(封殺の一例)。また、白いものを黒と言わせる意味での「馬鹿」(鹿を連れてきて趙高が「馬です。そうですね(確認)?」と発言し、「いいえ、違います。鹿です」と答えた人物を処刑)もこの頃の宮廷に由来する成語です。

為政者が都合の悪い情報やそれを伝える人物を排除することや、政争の中で上長に直言する人材が摩滅していくことなどは、現代の政界や様々な組織にも通じます。その意味では教訓的なエピソードなのですが、よく考えると疑問がないわけではありません。そこで次に、この描写の疑問点について書いてみます。

(2)誰もが知る秘密

秦始皇本紀では、胡亥死去の場面に居合わせたのは三人、胡亥・宦官・閻楽です。胡亥は自殺し、宦官の生死は不明です(これについては後で触れます)。閻楽は胡亥の発言について「趙高には報告しない(臣不敢報)」と明言しています。四の五の言わずに自決しろ、という文脈ですが、そうであればこそ閻楽が「もし、実態を伝えていたら、誅殺されて、どうして今まで生きていられたでしょうか」というやり取りを後世に伝えたとも考えにくいでしょう。

つまり、秦始皇本紀の劇的な(胡亥の立場から言えば、悲惨な)場面は、根拠や由来、平たく言えばネタ元が不詳なのです。公式にそういった記録が残っていた、とは考えられないタイプのエピソードなのです。事実、李斯伝にも具体的な発言や動作などは出てきません。裏の取れないネタということになります。

実は、『史記』には同じようなエピソードがたくさんあります。例えば、始皇帝は何度か命を狙われていますが(荊軻、張良、高漸離)、『史記』には暗殺者たちの生い立ちや準備の過程が記録されています。普通に考えれば、時の最高権力者を狙った暗殺計画は厳秘されるものでしょう。

また、始皇帝の死後、後継者の有力候補を退けて胡亥を擁立するために趙高と李斯が謀議したことも記録されています。しかし、当然これは秘密の話だったことでしょう。性質上、秘密にされたはずのゴシップや、動作や発言を不自然に高い解像度で伝えるエピソードは、『史記』を読んでいくと意外にたくさん見つかるのです。

だからこそ、『史記』が物語として(あるいは、「陰謀論」として)おもしろく、教訓を含めて読み継がれてきたという側面は確かにあるでしょう。とくに、歴史上の劇的な場面は、登場人物の台詞も含めて世に知られやすいものです。胡亥の(事実上の)暗殺との類比でいえば、日本近代史で、五・一五事件で犬養毅が殺害された際の「話せばわかる」「問答無用」などが好例といえます。これも本来は密室内の会話ですが、今や周知の台詞といってよいでしょう。

胡亥の死亡時期(前207)と司馬遷が生きた時代(前2-1世紀)は、約百年のギャップと考えれば、五・一五事件(1932年)から現代(2021年)と比較的近い時間的距離といえます。だとすれば、その間、印象的な歴史物語が語り継がれてきた可能性は十分にあり得ます。一方、両者には、国家的な歴史教育の有無やメディアによる情報の流通といった点で大きな差異があります。一般的に言って、2000年前の方が情報は伝わりにくく、消えやすかったことでしょう。根拠不明の劇的なお話としての「胡亥の死」はなぜそうした中で『史記』に書き留められたのでしょうか。

(3)「宦官」はどこへ消えた?

胡亥の死に関する風説の伝播にはいくつかの可能性があります。

一つには、司馬遷が生きた時代の王朝=漢王朝の権威と正統性を高めるため、秦の内部混乱や乱脈が強調されがちであり、そういった方向性に乗ったエピソードの一つとして「胡亥暗殺」が流布していた、という考え方があります。明確な証拠はないけれども、民間で、おそらく口承によって言い伝えられ、講談師のような存在によって一部の描写がでっちあげられたり、尾ひれがつけられたりしたかもしれません。司馬遷自身は、(内心どう思ったかはともかく)そういったお話をニュートラルに収集して記録した、という可能性です。ということになるでしょう。

この筋書きは、それなりに合理的で、説得力もありますが、「ニュートラルな司馬遷」像には若干の疑問が残ります。

どういうことか。よく知られるように、司馬遷は漢の武帝への諫言によって宮刑に処せられた人物です。元々、漢の武帝には、良くも悪くもワンマンな気質があったとされます。この点は、後漢時代にできた『漢書』からも確認できます。とはいえ、臣下の提案を受け入れることもあり、司馬遷もそこで意見を述べたところ、不幸にも逆鱗に触れたのです。

司馬遷は、元々歴史や暦を扱う官吏として宮仕えをしながら『史記』の原型になる書物を書き継いでいたとされますが、著述が完了したのは屈辱的な刑罰を受けた後のことでした。このときまでに武帝の怒りに触れたことによる罪は許され、中書令という官に就いて、再び武帝に仕えていました。こうした司馬遷自身の屈辱と屈折、武帝との関係は、『史記』の著述に少なくない影響を与えたと考えられます。

そこで胡亥の死に戻ると、その後の行方が知れない「宦官」がどうしても引っ掛かります。「宦者」は小役人という程度の意味ともされますが、反乱兵が皇帝の居所に踏み込んでいる、という状況からみるとプライベートな空間とするのが自然でしょう。そうだとすると、「敢えて言わざるが故に全きを得」た宦官は、宮刑以後の司馬遷と同じ属性を持っていたことになります。

司馬遷自身は官僚生活の中で宮中の蔵書に触れるポストを経験しています。したがって、記録が残っていることについては、例えば胡亥や趙高の行動や発言について知ることができたはずです。一方、司馬遷が若いころに中国各地を歩いて史跡やそれにまつわる話を見聞したことも有名です。『史記』に採られた民間伝承はこうした経験に由来するとされます。

とはいえ、そうした情報を司馬遷が「ありのままに」記録した保証はありません。こと胡亥の死については、「敢えて言」ったがために「誅」されそうになり、宮刑を受けた自身を重ね合わせて情報をつなぎ合わせた、という可能性もあるわけです。公式記録と民間伝承をもとに、司馬遷が、「手遅れになってから不都合な事実を知ることの大切さに気付かせる宦官」や「不都合な事実に目を向けることができなかった君主の哀れな発言」を脚色・造形した、という考え方です。

胡亥の死をめぐる劇的なストーリーは、単に「詳しく伝わっていた」というには詳しく、かつ主張が強いもので、意図や目的をもって流布したエピソードと考えられます。たしかに、秦を低く見せて漢を持ち上げる方向性には沿うものですが、筆者には、そこに司馬遷個人の情念も投影されているように思えてなりません。たった一人で最後まで仕えた一人の宦官と、直言が届かなかったために悲惨な最期を迎えた胡亥の発言とが完全な創作であるとまでは言い切れませんが、司馬遷の境遇を重ねて読み解けば、敢えてこの場面が書き込まれた理由と、そこに込められた意図とを一段と明瞭に理解することができるのではないでしょうか。


(参考文献)

・秦代について
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 : 秦漢帝国』講談社、2004年。
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波書店、2015年。
柴田昇『漢帝国成立前史――秦末反乱と楚漢戦争』白帝社、2018年。

・二世皇帝について
角谷常子「秦の二世皇帝――ソファの玉座から落ちた皇帝」『月刊しにか』10(8)、1999年。

・司馬遷と『史記』の叙述について
武田泰淳『司馬遷――史記の世界』講談社、1972年。
宮崎市定「史記李斯列伝を読む」『東洋史研究』35(4)、1977年。
横山光輝『史記』小学館、1999年(胡亥死去の場面は秦始皇本紀に基づく)。
藤田勝久「司馬遷の旅行と取材」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』 (8)、2000年(『史記』の素材に関する論考)。
齋藤賢「蘇秦列傳の成立」『東洋史研究』東洋史研究 78(4)、2020年(『史記』の叙述に関する最新の論文)。


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