楽器の泉

どこかでカリンバの音が聞こえる。
昼に進められるマンション新築工事の最中、唸るモーター音、太い杭を打ちこむ音、怒号、その柔らかい金属音はそれらを掻い潜り私の耳まで到達した。しばし作業の手を止めてどこから聞こえてくるのかを探る。しかしあまりにも微かな音なので、音の発生源が同じマンションの住人なのか、近所の平屋なのか、はたまた隣の公園かどうかは掴めなかった。とにかく誰かがカリンバを練習しているのだろう。試し弾きのようなたどたどしさが感じられたが根気強く続けている。通っていた大学に「落ちていた」アコースティックギターを2日間練習したが、楽器の上達には根気が一番必要だとしっかり学びまた元の場所に戻した私とは大違いだ。

日が沈むにつれ音はどんどん掠れて頼りなげになっていく。カリンバはとても美しい音を出すので僅かに寂しさを覚えたがさすがにこんな時間まで弾き続けたら近所迷惑にもなるだろう。
明日も聞こえるだろうか。ノンカフェインコーヒーをすすり、時々はソファーに寝っ転がり、今日の分の仕事を終え、素麺を茹で、ぬるめのシャワーを浴び、『4つの証明』を読み進め、照明を消し、いつもどおり柔らかなタオルケットをそっと巻きつけ眠りの到来を待った。

瞼を下ろしたその瞬間にカリンバの爆音が跳ね飛ぶ。私は声にならない悲鳴をあげた。心臓が肉体から飛び出し天井にへばりつくくらいにドキドキと脈打っている。昼間とは比較にならないどこまでも膨れ上がる音に恐怖を感じた。大きい音は怖い。だが、どんなに大きくったってカリンバの音はどこまでも優しい。心拍数が整うにつれ私の耳も慣れていった。
昼間と違うのは音から音楽へと変わったことだ。始めて2日のような、つっかえつっかえなんかじゃない、熟練の弾き手然としたどっしりとした旋律だった。それなのに同じ人物のように思える。いつの間に変わったのだろう。

「トムです」
カリンバを弾く人は音にかき消されないギリギリの声量でぼそりと呟いた。
「ねぇトムさん」
「私はモリスです」
どういうことだろう。本人がモリスというのならばモリスなのか。
「あの、モリスさん」
親指を動かし続けたまま目だけはこちらを見る。
「あなたはなぜここで演奏しているのですか」
「泉の治療のためです」
これで会話は終了した。あとは何を言っても口を開いてはくれなかった。

やや大きめの旋律に耳を傾けつつ、泉の治療について考える。
私はこの街に住んでもう11年は経つだろうか。このマンションを買うにあたって地盤の硬さを一番重視した。地盤以外にも過去ここがなんだったのかを遡れるだけ遡ったり、施工方法のあれそれ、それを実行する信頼できる業者など思いつく限りを購入前から徹底して調べ上げた。正直、あの頃の私はいろんなことに参ってしまっていて、その時に起こったであろう楽しい記憶がひとつも思い出せない。あの時調べた内容だけは何も見なくても答えられる。この国で暮らしていくためには持っていた方が良い知識だと思う。

ここの周辺は泉どころか川もなく、水に関係するものなどなにもない。そういった土地だからこそ私は自分の住居を構えるに相応しいとしたのだ。もちろん資料のない時代のことはわからないが、少なくとも400年前から今の今まで大きな水害は起こっていないし、この付近の水に関して思い浮かぶのは、貯水槽の交換の際に誤って水槽を破損させてしまい、2件先のアパートの最上階から滝のように水が落ちた件についてだろうか。でもそれならもう保証も補修も終わっていると広報に載っていたはずだ。
いや、言葉の意味を取り違えているのかもしれない。いずみは人名という線だ。泉さん、依澄さん、出水さん。
そもそもカリンバに馴染みはない。私は音符だって下から順に数えていかないと何が何なのかわからないタイプだ。熱心に歌を聴く方でもないし、コンサートの類にも生まれてこのかた行ったことがない。カリンバで連想できるのは歯医者でひっそりとかけられる有線放送や、あとはスパ施設、ヒーリング系の動画などだが、歯医者では心を凪に保つのに精一杯で音楽を聴く余裕を持ち合わせていないし、スパは3年前に世界がこうなってしまってからは足が遠のいていた。この目の前で弾かれている小さな木製の楽器と私の間には随分と距離がある。

モリスさんの演奏は明け方まで続いた。部屋の奥にある採光窓が少しずつ白んでいく。何時間と聞かされていたが不思議と体は疲れなかった。驚くべきことに、優しさの集合体かと思われるようなカリンバからは体がびりびりと痺れるような歪んだ音が出る。澄んだ音と同時に聞こえる金属が跳ねる音。びょいーんだかぶいーんだかのノイズともいえる音が、カリンバという楽器をより一層奥深いものに押し上げている気がした。

何も喋らないモリスさんに素晴らしい演奏だったと声をかける。朝日に目を細めたモリスさんはゆっくりと私を見つめた。
「治療は終わりました。これから泉が力を取り戻すまでの間、いくつか問題が起こりますので対処をお願いします。くれぐれも怪我にはお気をつけください。あなたが怪我をされますと、泉の方も該当する箇所に怪我をします。また泉の方で起こったことはあなたにも共有されます」
そう一息に言い切るとモリスさんはさっと立ち上がり、私の瞼を強制的に引き上げた。ずっと座ってつまびいていた人の急な行動に思わず仰け反り、背後にあったベッドにそのまま倒れ込んでしまったが、もう起き上がる気にもなれなかった。ここには私以外誰もいなかったからだ。

しばらく呆然としていると、ベッドの足元に細くて長い、木で作られた筒が落ちていることに気がついた。60cm程度だろうか、これといって例えられるものがない。寝返りを打ち、手を伸ばす。重さも想像通りであり、どこからどう見ても木製の筒だ。
「ここは破損したカリンバの一部を見つけるのが自然な流れだと思う」
声に出してはみたが、筒は細い鉄の板には変化しなかった。
手を伸ばし筒を眺める。天井に光が走る。もうすぐ7時になる。

この筒は決して私のものではない。

稀代の名探偵でない私は用途不明の長い筒を手に何をしたらいいのかわからず、長い長いため息をついた。素晴らしい演奏を思い出そうとしたが、結局放棄し、始業までの2時間弱を睡眠に充てることとした。
瞼を下ろすと何ひとつ音が聞こえなかった。蝉の声も、鳥の声も。

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