【雑文】自由意志とテクノロジー/伊藤計劃研究

 ※メモがてらなので四方山です。

『虐殺器官』にしても『ハーモニー』にしても、極限状況下でなお主人公に自由意志があった、との記述を入念に記しているんだな……と今更のように気づきました。

『虐殺器官』のクラヴィス・シェパードの行動は、少なくとも虐殺の文法には影響されてないよ――とは 8月の読解 で触れました。

『ハーモニー』の霧慧トァンには、少なくともWatchMeの調和パッチの拒絶受手段を持っていたよ―― とも 11月の読解 の読解で扱いました。

 もちろん、信頼できない語り手タイプの話として、自由意志を成立させておく必要はあったでしょう。ただほとんどの読者にとっては、その成立は本当に儚い――およそ感じ取れない類いの――描写だったようにも思います。

 成立こそしているものの、恐ろしく儚い描写。
 そのバランスを若書きと呼ぶか、それとも繊細と呼ぶか。
 なんとも悩ましいところです。

付記:
今回の文章は稲葉振一郎『ナウシカ解読 増補版』 第三部第5章、「伊藤計劃の屍者たち」に想を得ています。

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