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クラヴィスと悪夢――「死者の国」再訪/伊藤計劃『虐殺器官』読解

 死者の国とは悪夢であり、中盤以降のクラヴィスには心休まる存在でない ――そんな記事を以前書いた。
 本稿はその続編にして増補版であり、全編を通してのクラヴィスと「死者」の関係を取り上げるものだ。

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『虐殺器官』を通読して分かるのは、死者の国はあくまで全体の一エピソードということだ。そもそも「死者の国」とは、作品中盤までにのみ現れる言い回し」なのだから。

 注意深く読めば、「死者の国」は最初から夢と示されている。

「死者の国は、ときどきぼくのもとにおとずれて、こころの表面をカリカリと小さく引っかき、そして目覚めとともに去ってゆく」

夜ごと死者の国に誘われるままにしていた」

夜ごと「死者の国」からぼくに語りかけている」

 中盤、ウィリアムズの指摘後なら、この示唆は明白だろう。夜ごと見る夢、それが「死者の国」だったのだ。

 安らぎに思えた「死者の国」は悪夢に過ぎない。
 それも、自分一人が見た悪夢ですらなかった。クラヴィスからはがさつとしか見えなかった同僚、ウィリアムズもまた悪夢を見ていたのだ。
 単なる悪夢。そう指摘され、ため息まじりにクラヴィスは肯定する、「カウンセラーにかかるべきかな」と。

 中盤からのクラヴィスは死者の国に惹かれていない
 ゆえに、一時期流布した俗説――エピローグでのクラヴィスの動機は「死者の国」に惹かれたためとの仮説――は、明確に誤りなのである。

 だが、クラヴィスの悪夢はどうなったのか。
 確かに、安らぎとしての「死者の国」は姿を消した。
 しかしそれは、悪夢の消失を意味しない。
 単に「死者」として、その後もたびたび言及され続ける。
 その言及にはもはや、かつての安らぎはない。

 では、「死者の国」および「死者」への言及、その変遷を見ていこう。

「死者の国」消滅まで


 死者たちがぼくに手を振って微笑んでいる。(中略)頭のない死者がどうして微笑んでいるとわかるのか、ぼくにもさっぱりわからなかったけれど、それでもやっぱり彼は微笑んでいて、自分の腹からこぼれる腸をどうしたものかと所在なげにもてあそんでいる。

 人類の歴史がはじまって以来すべての死者たちが河となって、ゆるやかにいずこかへと行進をつづけている。

 ぼくはうなずき、母さんとともにかなたの死者たちへと歩いてゆく。最初に学校へいったときも、こうだったっけ。ぼくは懐かしさに涙を流しながら、母さんとともにゆく。

 死者の国に行ったあとは涙で濡れていることがままある。

 自分の呼吸の音がクリアに聴こえる。ぼくは死者だ。これから大地に混乱と殺戮をもたらす黙示録の死者だ。

 死者の脂が燃えて雲底を紅く照らし出す地獄のような夜には、皮肉としか言いようのない美しい曲だ。

 その瞳は、死者のようにがらんどうだった。幽霊を見てしまったらこんな感じなのだろうか。

 「死者の国」はいまでもときどきやってくるが、それはあまりに安らぎに満ちていて、とうてい地獄などとは思えない

「微笑み」「ゆるやか」「安らぎ」、あるいは自己同一視。「死者の国」に対し、使われている形容はかなり肯定的だ。
 一方で、こんな記述もある。父の自殺当時、母の様子を描いたシーンだ。

 死者は答えない。だからこの呪いは本質的に解かれることはありえない。忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如襲いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない

「ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない」――この描写はあくまでも他人事だ。少なくとも、この時点では。
 けれども、徐々にクラヴィスは気づく、気づいてしまう。「死者の国」とは、すなわち悪夢なのだと。

 死者の国の旅客機で眠りに落ち、生者の国の旅客機で目覚める。
 アレックスが死んでこのかた、「死者の国」が頻繁に見えるようになった。あまりに頻度が増えてきたので、軍のカウンセラーに相談したほうがいいかもしれないと考えたこともあるが、いまのところ任務に支障をきたしているというふうでもない。

 ふと見上げると、アレックスがにこやかに微笑んでいる。死者は自分の頭をとんとんと指差して、「地獄はここにあるんですから」「やめてくれ

 クラヴィスの疑問は膨らんでいき、ウィリアムズの指摘で氷解するのだ。

「死者の国、か」
 ウィリアムズが訊いてくる。ぼくはしばらく戸惑っていたが、正直に頷いた。「アレックスの自殺からこのかた、特によく見るようになった」「俺もだ」
 意外なウィリアムズの返答に、ぼくは驚いた。「お前のように死者の国なんて名前はつけちゃいない。単なる夢さ。アレックスについての夢だ。内容は憶えちゃいないが、起きてからたいそう嫌な気分になるのだけは一緒だよ。そう言ってよければ、悪夢なんだろうな」
カウンセラーにかかるべきかな」ぼくは溜息をつき、「作戦で子供らを殺す前みたいにさ。アレックスなら神父に相談していたんだろうが、ぼくに宗教はないから」

「死者の国」消滅後


 ウィリアムズの指摘後、「死者の国」は姿を消す。
 では、その後の「死者」はどうだったか。
「死者」はそのまま、クラヴィスを苛み続ける。

 死者は誰も赦すことができない。
 少なくとも、クラヴィスはそう考えている。

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