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渡邉恒雄の哲学と、義理人情の世界について。

今日は読売新聞社の顔、渡邉恒雄の道徳感について触れたので自らの道徳律を交えた上で記事を執筆したいと思う。

日本人なら誰もが知っている読売新聞社のボス、渡邉恒雄。通称「ナベツネ」さん。

彼は青年期に太平洋戦争を体験し、そして戦後日本における激動の時代を生きてきた。

彼は東京帝国大学に在学中、自身の道徳律について、哲学者であるカントから着想を得たという。

カント哲学の一つに有名な言葉がある。それは「我が上なる空に散りばめられたる星空と我が内なる道徳律」である。

これは要するに、この世界における数学的な秩序や宇宙における法則と、私たちの心の中にある道徳心は如何なるresistanceが働いても変えることのできないものである。という世の中の普遍のものを己と宇宙に喩えた言葉であると彼は唱える。

カントは実践理性批判にて道徳とは何か?を追求していた。道徳心とは、自己の中から湧き出る内発的な考えのことを言うのだ。

彼は戦時中、学徒出陣によって日本軍へ赴きその悲惨な組織体制を身をもって体験した。

上官は理不尽な命令を下し、それに逆らうと問答無用で制裁が下されたという。

しかし当時の自分を彼はこう語った。「上官からなにを言われようと己の道徳律を犯すことはできない。自身の正義感とは他人に容易く詰られるものではないのだ」と。

日本が敗戦し、激動の時代を迎える頃、彼は新聞記者として常に真実だけを追い求めていたという。この国を戦時中のような過怠なあり方にしてはいけない。真実だけを見つめ、己の道徳律に基づいた正しい行いをする。

これが彼の生き方である。

人には必ず己の中に道徳律が存在する。「人を殺さない」「人に感謝する」「GIVE AND TAKE」どれも当たり前だが、戦争を体験している彼だからこそこれらの精神を誰よりも大切にしているのだ。

さて、兎角言う私はどうであろうか。己の道徳律に基づいて正しい行いをすることが出来ているのか。

私はとあるご縁がきっかけで、義理人情と言うものに示唆を受けた。義理人情については別の記事にて執筆しようかと思う。

その義理人情に示唆を受けてから、社会や経済のシステムに沿った形で己の正義に嘘をつけばをすればいい方向に行かないと言うことに気がついた。

これは古代ギリシャで望ましいと言われてきた主意主義的な考えに近い気がする。

どれだけ自分の道徳律と向き合うことができて、信念を曲げることなく、人生を全うすることができるか。

人生ブレずに生きたいと思った今日この頃である🤭

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