20201122 三遊亭遊雀・遊かり親子会15@なかの芸能小劇場

演目:
蛙茶番 遊雀
夢をあきらめないで 遊かり
(お中入り)
鮫講釈 遊かり
芝浜 遊雀

また夜型にシフトし始めているようで、オードリーのANNの後に寝たはずなんだけど、9時と10時にしかけた目覚ましで10時に起きたつもりで、実はちょっと2度寝して11時に起きていたのに気がつかなくて、家を出てバスの時刻表をYahoo乗換案内で調べ始めたところで気がついて大慌てだった、と言う調子で、なんとか開場後開演前に到着したけど、軽く朝食べただけで行ってので、特に中入り後は「はらへったー(,,゚Д゚)」でいつ腹が鳴るかという結構な恐怖心に襲われながらの大トリネタ、よりによって静謐さが求められる展開でありました(,,゚Д゚)
まぁ、その辺の話は、演目順に話すこととして最後に。

まずは、遊雀師匠から。
親子会の出番がA-B-B-Aの二人会スタイルの出番になったのはちょっと前からだけど、今日の二人の演目と出来を見ていると、遊雀師匠の中ではこの会って、もうただの「親子会」ではなく「二人会」になってるんじゃないかなー。師弟に変わりないし、二番弟子が来ないから一門会にはならないけど。
で、お伊勢様でのエピソードから、蛙茶番へ。なかの芸能小劇場ってそこまで広い会場ではないけど、らくごカフェや道楽亭のような小さな会場ではないから、目の悪いあたしがそんなに細かいところが見えるはずがないのに、細かな動きまで見えるようで、それだけで笑わせられる。噺そのものが滑稽噺だから台詞だけでも面白いんだけど、そういう微に入り細に入りの仕草とかそういうのが積み重なって、サンキュータツオの言うところの「合気道の名人」という、ほんの呼吸のようなもので笑わせているようにも見えるのかも。まずは、いつもの「爆笑王の遊雀」という感じ。

そして、お中入り前の遊かりさんは、自作の新作「夢をあきらめないで」。
「新作冒険倶楽部」でのネタ下ろしで見ているから、そことの比較でいえば、多分もうある程度は細部とかも落ち着いた出来になってるんじゃないかなー。サカモト=サトウ=シバタの女子社員三人組(一昔前だとOLトリオだろうなー。「OL進化論」みたいな感じの)も作り物くさくない感じ、もともとあまりなかったけど更に自然な感じになってるし。
で、その後の某所の話だったり、お中入り後の「楽屋に帰ったら長いので師匠が寝てた」だったりもあって、長講一席の長さで、今日の内容からどこか削れるかというと、もうこれ以上削りようがないんだよねーたぶん。うん、三人組の雑談っぽいのも細かなくすぐりもこれ以上削ったらただの「あらすじ」になっちゃう。ともすれば、あたしみたいなオサーンだとタナカ部長(だいたいほぼ同じ年代の設定なんだよねーw)のキャラの肉付けすら欲しいくらいだけど、それはもう蛇足も蛇足になるし。
もうこのまま長講ネタとして、短くするのはあきらめて演じるときにあわせてアップデート(ほれ、あと7-8年もしたらバブルを知ってる世代なんて会社に居なくなるしw)していくか、三人組を二人に絞って整理したショートVer.を作るか。でも、オリジナルの方と両方覚えるのって大変だよなー。たぶん途中のどこかを省くとかじゃなくてもう一度構成をやり直すから、違う話1つ作るのと同じくらいになるはずで(,,゚Д゚)。
まぁ、ご本人もその辺はいろいろ考えているようだから、最適解は本人が考えるだろうけど、この話、特に遊かりさんと同年代より年下の女性にはウケるだろうから、一番いいのは、オリジナルでの口演を出来るような会そのものをいっぱいできるようになるのが一番なんだけどね、たぶん。

お中入り後は、遊かりさんで「鮫講釈」。謎かけの下りのないショートVer.。
遊かりさんでこの手のを聞いた覚えがあって、去年くらいからつけている聴いたネタ帳をひっくり返したら、去年の7月に同じ「鮫講釈」を聴いてたんだった。「やかん」もどっかで聴いた覚えがあったんだけど、誰かと記憶がこんがらがってたんだかあたし(,,゚Д゚)
うん、「やかん」だとあくまで素人がやかんのいわれを教えるのに講釈を始めるんだけど、「鮫講釈」だと曲がりなりにも旅の講釈師が今生の別れに講釈をはじめるから、本格的な講談じゃなくてもそれっぽくはやんなきゃいけないし、でもネタが変わった(それがくすぐりになる)のをお客に気づかせないといけないし、たぶん、本当に身体に音楽を覚えさせるようにしみこませないといけないから、噺家さんがやるのって結構難しいよねぇ。その点、兼好師匠に稽古つけてもらってやってた松之丞当時の神田伯山、ずるいよなー、本職だしwww
まぁ、でも噛んだところはさておきw、ほぼ出来てたんじゃないかなーと。扇子で「パンパパンパパンパン」とやる前のところが、甲高い声になるのは一龍斎貞船の語り出しと調子のあっている方をとるか、とにかく御陽気に明るくという感じをとるかの違いだから、そこは本人がどうしたいかだしねぇw でも、前に聴いたときよりはこの下りが格段に違っていたと思うんで。記憶こんがらがってるくらいなので、あてにならないけどさーw

そして、トリ。遊雀師匠の「芝浜」。もう、大きな会で行くと、このネタの時期かねぇ。
で、感想の前に。

あたしが時々、遊雀師匠の本寸法の、まさに本気(いや、普段が手抜きと言っているわけでなくw)の大ネタの時に、「抜き身の遊雀」と呼んでいたりする。一つは、最初の方に書いたサンキュータツオが、主に渋谷らくごの時に表現している「合気道の達人のように、呼吸一つで笑わせる」という表現から借りて、その合気道の達人が長物を抜いてきて真剣勝負のように、客席に息もつかせないような緊張感を漂わせる姿から。
もう一つは、今年引退してしまったレスラー、獣神サンダーライガーの名台詞「レスラーは誰も、懐にジャックナイフを持って、いざという時に抜けるようにしておかないといけない」から。普段は華麗な空中技とかを繰り広げるライガーだけど、元は藤原道場の関節技の使い手(藤原喜明が船木や鈴木と新日を離脱してUWFに移ったとき、ライガーも移ると思われていたくらいだし)だったりもするし、新日の道場には道場破りが来ていたからその相手もしないといけなかった。そういう時にちゃんと相手を仕留められるものを身につけておいてのプロレスラーだという哲学。
決して、大御所でございという感じでいつもそうなわけではなく、寄席で中程の出番だったり、相手を立てるようなとき、いや、今日の一席目とかのような客席を暖めたり沸かせたり、普段の出番ではそうだけど、いざという時にはまさにそういう「抜き身」を取り出してきて、客を高座に集中させて息をもつかせない、決して気楽な気持ちでは聞けないけど、聞き終わった瞬間に心地よい疲れの伴う、まさにリアルタイムで味わえる「名人」。
(そういえば、リバプールで風になったライガーの中の人も、御存命ならw遊雀師匠と同い年だったりするなー)
それを最初に思ったのは、もう3年も前のこの会での「文七元結」の時かな。

そして、今日の「芝浜」で、まさに同じ感想を持った。やはりネタ帳を見ると、去年の「遊雀式スペシャル」で聴いているはずなんだけど、その時にはトリネタではなかったし、細かいところが違っていたのだろう、今日聞いたのが初めてのような気分だった。

で、上にある「文七元結」の感想にもあるんだけど、遊雀師匠の細かい一つ一つの台詞仕草、その一つ一つがこの話に納得というか説得力を与えている。
どうしてあれだけどんちゃん騒ぎをしたのに、大家さんはともかく連れてきた友達連中までよく口裏合わせて黙っていられたか。それはいいからいいからと理由を説明せずにただ宴会をしていたから。
どうして財布を拾ったのが夢だと思っただけで性根を入れ替えたのか(だから立川談笑の「シャブ浜」だと警察にたれ込むという強行手段に出ていて、これはこれで説得力がある)。酒に溺れて情けない夢を見た上に恋女房(なので、「替わり目」みたいな恐いおかみさんという感じはここまでは出してない)が出て行く別れるとまで言い出してしまったから。しかも、寸が長くなるのを承知で元の得意先に詫びを入れにいく場面を入れる。決して最初はいい感じで相手をしてくれていたわけではない。そこを何とか取り合ってもらえた。もう二度としくじることは出来ない。
その上で、三年目の大晦日。それも「三年我慢したんだから大丈夫」程度じゃなくて、もう大丈夫だという確信を持てる台詞を聞けたからこそ、「もう、荷物降ろしてもいいかい」と。その台詞が聞けていなかったら、きっとまだそのつらい「重い荷物」を持ち続けるつもりだったんだろう。
もう、一杯やってもいいのかも知れない。でも、それで万が一また元の自堕落な自分に戻ったら、もう一度、あの詫びを入れにいくところからこの三年間をやり直さないといけないし、なにより、恋女房にまた違う「重い荷物」を背負わせてしまうことになる。その荷物を今まで背負わせていたのは、自分だ。

あまりにも有名になりすぎて手垢がつきすぎて、普通にやったら「ああいつもの台詞だね」ですんでしまう。「そろそろ年末だね。風物詩の芝浜聞けたね」ですんでしまう台詞。「また、夢になるといけねえ」
そこにリアリティを持たせるために、細かな台詞や仕草、なんなら顔の表情、視線の1つ1つを積み重ねてきて、そのために客が途中で緊張に耐えられなくならないように程のいいくすぐりも入れながら、その全てをサゲの台詞に集約していく。ああ、そうだよね、こんな三年間を過ごしてきたんだもん。このひとくちでそれが無に帰すかもしれないと思ったら、んまぁ、後にはおいおいほどよい距離を保って呑めるのかもしれないけど、急に、今、この時には飲めないよとても。それこそが、酒の誘惑に負けてしまうと言う意味での「豪傑ではない市井の人」とは違う、「この一歩を踏み出してしまうことの恐怖を知っている市井の人」のリアリティ。「また、夢になるといけねぇ」という台詞に込められた現実感(だから、サゲの台詞で待ってましたの拍手でなく、一瞬観客もためらってるよね、配信見直すと)。それを、舞台装置も何もない高座の上の一人芝居で見せつけてくる本気の三遊亭遊雀。まさに「抜き身の遊雀」。
「お客様に育てていただきたい」と枕であったけど、これ以上、どう育てりゃいいの(笑) その位の、この録画をそのままCDなりDVDで売って世の人に知って欲しい聴いて欲しいほどの名演。うん、それでも、ここから育って更によくなるというのなら。これからのどこかの会で「遊雀が芝浜を本寸法でやる」とネタ出しの告知があったら、迷わずにそのチケットを買って間違いはない。「この時期の風物詩」などではない、本来の落語としての「芝浜」が聞けるから。

後の渋谷らくごのポッドキャスト配信の枕で知ることになったんだけど(無論、枕なので盛ってる可能性大だがw)、さっきのリンクの感想文の会の前に、当時松之丞の伯山は遊雀師匠にこう言ったそうな。「師匠、本気でお願いします」と。
いつものHaco.と違う、COVID-19対策で客数制限はあってもそれなりの大きな会場なのもあるのかもしれないけど、この親子会でこれだけのものを遊雀師匠が出してきたのは、もちろん季節柄もあるかもしれないけど、やはり、遊かりさんの2席、特に「夢をあきらめないで」が良かったからと言うのもあるんじゃないかなー。寸が長くてかける機会が少なくなるというのは、別に噺そのものの欠点ではないんだし。
で、裏で小言があるかどうかは観客からはわからないけどw、本来は高座に上がったときに遊雀師匠、枕とかなしにそのまま「芝浜」本編に入るつもりじゃなかったのかな。羽織着てなかったし。それをああいうほめる枕が少しついたのは、やっぱりそれだけ遊かりさんが腕あげた証左だろうし。うーん。楽屋戻ったとき寝てたって、狸寝入りじゃないかなーw
で、頭にも書いたけど。
COVID-19のせいで、次の会がいつになるのか、元のHaco.に戻れるのか、配信中心になるのか、今日と同じ形態になるのかはさっぱりわからないけど、まぁ、出番の順序が前から変わったこともあわせて、とはいえ師弟はいつまでたっても師弟なんだろうけど、見てるこちらとしてももう「親子会」よりは「二人会」の気持ちで行った方がいいのかもね。本来は遊かりさんが真打ち昇進してからなんだろうけど、なんというか、割と進むべき方向は本人の中でも決まってきたような気がして、あとは本当の真打ち昇進まで、今までの噺への磨きと、昇進までに必要なものをどれだけ積み増せるかという話であって。

10回記念のような特別の会(この時は先約でいけなかったんだよなー(,,゚Д゚))ではないけど、同じなかの芸能小劇場で、しかもこんないいものを聴かせてもらって。ある意味、「記念の回」、だったのかも。後々振り返れば。


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