大切な家族を亡くしてからこそ人生を悔いなく生きたい。

こんにちは、40代会社員で家庭持ちの男性matuです。

ある日突然、深刻な病名を告げられたり親族を失う事があったらどうしますか?おそらく、大抵の人はショックを受け何事も手がつけられない程の精神的なダメージを受けるでしょう。

今までなんら不自由のない生活に突如降りかかる不幸は絶望と後悔しなく。できるのであれば過去をやり直したいと思ってしまう。

けれど人生とは一度切り。亡くなった人は戻ってこないし、病は簡単に治せないのが事実です。とはいえ、人とは不思議なもので周りの人に助けられる事で苦しい状況を抜け出し前を向き強くなれる事ができる。

本記事では、そんな余命宣告された弟が亡くなりそれまでの人生観とは180度変わってしまったことや自身に降り掛かった深刻な病気との葛藤について書いた奮闘記です。

この記事を読んで、両親や家族との関係、健康とはいのちとはなんだろうかと参思い書かせていただきましたので何か参考になれば幸いです。

突然の別れを告げられたら人はどうするか!

季節は冬のある日それは突然の出来事だった…。夕食を終え、ゆっくりしているところに、親からの連絡が入る。

普段連絡がないだけに何があったか緊張が走る中、家族のいる場所から少し席を外し母からの電話を取る。静まった部屋の中で母から告げられた内容は、弟の事で「余命三か月の癌で入院中」でりあることを告げられる。

その言葉を聞いて一瞬、何を言っているのか理解できず息を飲んだ。その後、ゆっくり深呼吸してから改めて母の話を聞く。弟(双子)は肺癌で進行がんのステージⅣ。既に臓器や骨髄に転移し余命はわずかであること時間が取れるなら直ぐに会ってあげて欲しいと言った趣旨の内容。

聞き終えた時には落胆しかなかった。兄弟仲は決して良くはないが、双子であり20歳になるまでは同じ屋根の下で暮らしてた弟。その弟が亡くなるかもしれないと考えただけで私は自然と涙を流してた。

して、余りにも突然な事に頭は真っ白!

頭が回らず、側にいる妻にどう説明した良いか立ち尽くすしかありませんでした。また、母も涙を流しているのが分かり、私は黙る事しかできない。母も同じ病に苦しむ癌サバイバー。

そんな母の声を聞いて、私は神様とは時に理不尽なことをするなと恨みたくなった。

それから妻にことの顛末を話し、後日仕事を休み弟に会いに行く。元気な姿でいると信じて…

余命はあってないようなものというが

弟と面会するまでは、元気で面会したら何時ものように「よるな!」、「うるさい」などの掛け合いができるのでははないのかと期待はしていた。

しかし、その思いは実際に面会して数秒で打ち破られてしまう。

下半身はやせ細り、全身に黄疸と点滴による痣の数々…口には管を通され目は開いてはいるものの目は虚ろでベットに寝ている姿。
正直、弟との最期がこんな形になるとは思わず、看護婦さんから声をかけてあげてくださいといわれても色んな思いがこみ上げて声が出て来ない。

なぜこうなる前に連絡をよこさなかった!なぜ体調が悪くなったならなぜ直ぐに病院にいかなかったのか…奥さんや子ども達はどうするんだよと、とても声掛けできるような優しい言葉は出てこない。

正直、家族が側にいなければ泣き崩れたいほど目の前にいる弟の変わり様にショックを受けていた。それでも時間が立つにつれ話しかけができるようになり、僅かな望みを抱きながら病室を後にした。

とはいえ、主治医からの病状は険しくなく、持って三ヶ月、速くて一ヶ月の余命と聞かされ、あ〜本当に弟は近くこの世を去るんだなと落胆したのは言うまでもない。それから、がん患者は昨日運転していたのに次の日には出来なくなるなど急激に悪くなることがあるとも言われた。

それでも、諦めきれず。治療を続けていれば何時か元気になるのではないかと望んでしまう。休みの日はできるだけ弟に会いに言った。今できること、1日でも速く元気になれよと思いながら…。

しかし、そんな願いは悲しくも届かず母から連絡を受けた日から2週間後の朝、弟は弟家族に看取られながらこの世を去った。

呆気なかった。肺に持病をもつ弟に成すすべがなく、着実に悪くなる病状。最後は看護ケアで痛みを和らげるしかなく、主治医から聞かされた「速くて一ヶ月」の言葉に、余命とはなあってないようなもので、それを信じてはならないんだなと痛感した。

弟と最後の別れ

連絡を受けたのが出勤中の事もあり、弟の最期を看取ることが出来なかった私は、次に再会したのは祭儀場の安置室だった。

告別式の準備が進められているなか、弟の再会はなんとも言えない感情が湧き出てくる。声をかければ起きてくるのではないかと思えるくらい穏やかに目を瞑っている弟。

とても数時間前に亡くなったとは思えないくらい優しく穏やかな顔をしている。が、すでに硬直しはじめていて顔は冷たい。触るたびもう会えないのかと涙を流していた。

世界で唯一の兄弟で…喧嘩することも、酒を飲むことも、何気ない会話でさえもできなくなる。そんな弟がもうこの世にはいない。

できるのなら時を戻してやり直して笑いながら話し合いたい。でもそんな思いは叶わない…。人は大切な人を亡くした時に後悔し、絶望すると聴くが、まさにその通りであると強く感じた。

式中は胸が締め付けられくらい苦しく、同時に双子だから遺伝し、自分も同じ病で無くなるのではないか、双子だから短命なのかなど浅はかにも自分で自分を苦しめていた。

その後、火葬までの時間はあっという間で位牌と遺影となった弟の姿にまだ受け入れらない自分がいた。

健康診断から詳しく検査してのまさかの結果!

弟の病状を聞いてから数日後の事。弟の件で健康に敏感になった母の影響もあって健康診断で気になっている部分の再検査を行った。

気にっている部分は、毎年のレントゲン検査で「すりガラス状」と注意喚起されている「肺」で、数年前にコロナウイルスで重症化した後から通院時に癌か難病かで疑われていた箇所である

一度、気になって検査をしたが、その時はコロナの関係でしょうと流され、日常生活に障害が生まれる事があるならその時に再び来院してくださいと診断された過去がある。

しかし、万が一がある。だから後悔しないために意を決して病院へ。

結果出るまで自分も癌であったらならどうしようかとドキドキしながら検査を待った結果は、「間質性肺炎」と告げられ中でも特発性間質性肺炎と言う類に入るであろうと診断された。

まったく聞いた事の病名にどんな病気なのか分からず医師の説明を聞く。医師からは、初見であり進行具合が定かではないため疑いであり「美空ひばりさん」が長年苦しめられた難病であること、発症すると完治する希はないこと、悪化すれば寿命は数年である事を告げられる。

そのことを聞いた瞬間、私は「自分も短命」なのか!と落胆し待合室のソファーに座って天を仰いだ。

病院からの帰宅後もまったく落ち着かず、自分の心臓の音が聞こえるくらい「「バクバク」している。

生きた心地がなく、もし本当であるならば親よりも早く死を迎え、家族とはあと数年しか一緒に居られない…子ども達の成長を側で見ることができなくなる。

そう考えると急に怖くなった。

どうしてなんだ…治らないなんて勘弁してほしい…まだ死にたくない。

食事も喉を通らずその日は眠れず。

悲しみと絶望感に立たされながら仕事はするものの力は入らずミスを連発するほど集中できない。帰宅後は屍の様に椅子に座るだけの日々を過ごす事が続いた。

それから悲劇は続くもので、長年の蓄積がたたりパソコン作業やゲームができなくなるほどのストレートネックも発症する。余命宣告後の身体的な疲労のWパンチに身も心もボロボロだった。

弟の死でぽっかり心に穴が開いてしまった。

弟の死後から数ヶ月経つも、すんなり気持ちを入れ替えることができず何をするにも喧嘩した時のことや小さい頃の事を思い出しては涙を流す日が続いていた。 

ぽっかり心に穴が開いてしまったかのように弟の事を思うばかり…。

生きていた時はあまり会わず寄り付きもしなかったのに、亡くなってから弟の存在の有り難さに気づくなって思いもしなかった。

あの世で会って「ごめんな!気にかけることができなくて」と伝えても許してくれないだろな。けど、許してくれるのであれば小さい頃のように仲良く話し喧嘩し笑い合いながら、あの世で平和に過ごしたいと思っている。

死については受け入れられないけど、命について改めて考えさせられ「後悔しない生き方」をしようと強く思えるようになり、これまでの生き方が全く変わったのは言うまでもない。

弟の死後から親族間の関係が変化する

弟の死後から特に大きな出来事は訪れることもなく、穏やかに過ごす日々し、季節は冬から梅雨明けの初夏を迎えた。

式からあっという間の半年間は、相変わらず弟に対する損失感と自身の病状への絶望感は拭えず軽い不安障害に悩まされている。

だが、月1の母や弟家族との近況報告や子供達(私からみたら姪っ子)に会う頻度が多くなったことがきっかけで自身の悩みが軽くなり、少しず弟の死について受け入れるようになってきた。

正直、母がいなかったらいつまでも悪い方に目を向けて塞ぎ込む日々を送っていたと思う。自身の体調も良くないのに、息子に気をかけてくれる。40歳になる大人であっても、親とはいつまで偉大で頭が上がらない存在であると気づかされる。

本当、感謝しかない!

それから、定期健診で病状の変化はなく担当医から病名のグレー判定を言い渡さたのもこの頃。突き止めるなら詳しく生検をやった方が良いのだが、現状は深刻ではなく軽微であり「間質性肺炎」の特徴である息切れ、咳、歩行困難の症状が現れないため担当医の判断で経過観察となっている。

おかげで、疑いは晴れていないが進行していないと安堵。精神的な不安が少し軽くなり徐々に回復傾向となったのは嬉しかった。

長引く体調不良は前厄だから?

夏も終わり季節は秋の終わり。ストレートネックの症状も治り気になる肺の症状も良好で、精神的に落ち着きを取り戻し、この間に徐々に人との交流を再会。

8月と10月には副業(ブログ)関係のオフ会に参加、本業では出会えない人との交流は楽しいく多くの事を学べ良い刺激となった。

だが、11月の初旬頃から体調を崩し、発熱と倦怠感に悩まされる日々が続く。呼吸困難の症状はなかったが、急性増悪(間質性肺炎)の恐れがあるため病院に検査入院をすることに…。

しかし、検査結果は増悪の傾向もなく、流行りのコロナや溶連菌の症状でもない。医師からはウイルス性の風邪と診断さ、一日目は検査入院と点滴で様子見、その後は抗生物質の投与をしながら経過観察で過ごすことに。

が、一週間経っても体調は回復せず微熱と咳が続く日々に加えストレートネックの症状が悪化。精力的に副業を頑張ろうと思っていた矢先の事だけに。

またか!と思いながらも精神的に落ち込み、年明けから続く様々な出来事に前厄だからかなかとふと思ってしまった。

それから、数日の通院を続けながらなんとか病状は回復。検査入院から完治するまで実に三週間を要した。

残るは、依然と改善されないストレートネックだけであるが、こればかりは長丁場で一朝一夕には行かない。完全回復となるのはまたまだ先で40年生きてここまで病院通いが多い年はなかったので年をとったなと感じる一年であった。

新たな年は自分らしく楽しむ

ここ数年の年末年始は、副業に精を出してきたが、今年に限っては、精神的にも疲弊しストレスネックの症状も悪いことから体のケアに専念。数年ぶりに、ゆっくりな休暇からスタートする。

ゲーム、映画、お菓子作り。これまで副業に力を入れて来ただけに趣味を堪能できる時間は新鮮で楽しい日々であった。と、同時に今年は「残り少ない命を後悔しない」をモットーにキャンプ&BBQや料理とお菓子作りにゲーム。外出はプチ旅行とアウトドア(キャンプ、スキー、スポーツ観戦)を楽しもうと決意。

これには、弟の死と昨年の体の異変があったからと、時間は有限であるからこその思いが強い。故に、死んでしまっては、病気をして体が動かなくなってしまっては何もできない。

現に、2月に入ってからキャンプ用品を徐々に集めては庭でテストをしたりしているし、週末は映画鑑賞をして楽しんでいる。

だから今は趣味を思い切り楽しみ、副業は心をみたしてから復帰しても遅くないと思っている。

ちなみに、2月に受けた肺の定期検診はコロナの時にお世話になった病院からCTデータを提供いただき3年前と全く変化のない状況にひとまず安心はしているが、かさぶたみたいなものである事は変わらず、これが今後どう変化するかは油断できない(癌や病気への変化)事もあり、引き続き通院することが決まっている。

今後、何か変化があれば続きを書く予定です。最後まで読んでいただきありがとうございました。






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