屋久島で出会った、心奪われるうつくしさ。
いま、屋久島にいる。
尊敬する友人が開く場に参加した。素晴らしい場だった。この場を終え一晩経ち、湧いてきた言葉を書き残しておきたい。
まず気づいたのは、僕はあまりにも光が大好きだということ。滝の水飛沫に虹を発見した瞬間、雨上がりの森の水滴に光を見た瞬間、また太陽の偉大な存在を感じた瞬間。ぼくはこれらの瞬間に出会うと、あまりのうつくしさに心奪われてしまう。
光を通し、水滴の存在を感じることができる。光を通し、木々の存在を感じることができる。光を通し、太陽の存在を感じることができる。
ぼくは、光それ自体がうつくしいと思っていた。でも同時に、光は対象物そのもののうつくしさを照らし出す存在なのかもしれない。
そしてこの光の対象は、外的な存在に限らない。自身の中で、あまりにも大切すぎる何か。ときにそれは見たくないものであり、隠したくなる何か。心の暗闇の中に潜むその何かを、光は露わにしてしまう。
つまり、光とは、世界にすでに存在するものを、人に届けてくれる存在なのかもしれない。こう考えたとき、僕は、光がより愛おしくなった。世界がより愛おしくなった。
この合宿では、ある特別な体験をした。もし僕が、この光自体だったなら現代の人々に何を伝えるか、という問いだった。
そこで口から出てきた言葉に、心底驚いた。
僕はこの言葉たちに出会い、愛にあふれる存在でありたいと願った。同時に、人がそうであることを想い出す手伝いをしたい、そして光を通し、隠されたうつくしさに出会いたい、そう強く思った。
この言葉たちに出会わせてくれたみなさmm、そして屋久島に住まうものたちへ、深く感謝申し上げます。本当に、ありがとうございます。
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