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生と死の淡いで

人は、生きていれば、何かの死と出会う。

うっとおしい蚊を叩き潰す時、魚や肉を食べる時、アリを踏み潰している時。でも、一番印象に残るのは、やはり、身近な存在の死だろう。ペットの死、友人の死、家族の死。

昨日、元々僧侶で、より死のリアリティに触れたいと、訪問介護の世界に飛び込んだ友人と話す機会があった。彼が、最近経験した、ドキッとした体験について教えてくれた。

「死んでも、人は暖かかったんだよね。」

当たり前の話なのだけれども、何か、自分の深いところに言葉が届いた気がした。彼は、僧侶として「死」に触れていた時は、「冷たい死」と触れていたが、「温かい死」と出会うことが少なかったというのだ。

彼は更に続けた。

「死んでいるんだけど、いるんだよね。そこに。死んでいても動きそうだ、という人の気持ちがわかった。」

あぁ、そうか、と思い、自身の体験を思い出した。3年ほど前、我が家のわんちゃんがなくなった。母親からワンちゃんが危ないという電話が来て、慌てて実家に戻った。心臓発作が何度か起き、病院に預けることになった。そして病院に預けて30分後、院長先生から電話が届いた。発作で亡くなったらしい。

そして、このワンちゃんは、「死体」となって家に戻ってきた。初めは信じられないし、もう一生分泣いたというくらいに、親子ともども泣いた。けれど不思議なことに、まだ生きている気がしたのだ。

次の日。箱にお花を散りばめて、そこにワンちゃんを入れた。ワンちゃんを見る度に涙がとめどなく溢れてくる。この日も生きている気がした。身体は固くなっていた。暖かさがあったかは覚えていない。

更に次の日。朝ワンちゃんを見て、なぜかわからないけれど、「死んでいる」と思ったのだ。なんとも表現ができないのだが、空っぽになっているというか、器になってしまった、という感覚を持った。生体的には、2日前にはなくなっていたのに。この差は何なのだろうか。

また、次の日。火葬を終え、煙として空に飛んでいくワンちゃんを母と見ていた。涙が流れ続けた。本当に死んじゃったんだ、という感覚を受け入れられなくて辛かった。母親は、落ち込みきった様子だった。しかし、数カ月後、母親は、ある別のワンちゃんとの出会い以来、「あのワンちゃん、生まれ変わったんだ」と不思議なことを言い出した。

「死んだ」はずなのに、「死んでいない」のだろうか。

一つ別のエピソードがある。僕は、小さい頃に父が死んでいる。それで物心付く前から、「お父さんは死んじゃったけど、星になって、こうすけのこと、空から見ているんだよ。」と言われて育った。信じていたか覚えてないけれど、大きくなった頃には、そんな訳ないよ、と思っていたことを覚えている。

しかし、である。不思議な話なのだが、このワンちゃんのこと以来、むしろ、父は「いる」気がしたのである。生きているのに存在を隠していた、という意味の「いる」ではない。生物としてはこの世界に存在していないが、「見られている」というか、常に意識すると横に「存在している」という感覚がなぜか芽生えるようになってしまった。

そうして、元僧侶の友人の話、このワンちゃんの話、父の話が繋がり、「生」と「死」の境界について考えた。普段、生と死は、明確に別れていると考えがちだけれども、実はもっと繊細に見ていくと、そこはもっとグラデーションがあり、雲のように曖昧なのだろうか。

僕は、この「生」と「死」に興味がある。一体全体、生とは、死とは、いのちとは何なのだろうか。生物区的な「生」という概念にも興味があるが、むしろ、人が「生を感じてしまう時」と「死を感じる時」の差異は、どうなっているのだろうか。

つまり、「人間にとって、生とは、死とは何なのだろうか。」、一生答えの出ない問いだと思うが、それを今回問わずにはいられなかった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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