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繊細さとともに生きる。

自分の繊細さに嫌気がさすことがある。

敏感だったときは、電車にのるだけで口内炎が出来たり。コンビニの前を通るだけで匂いに吐きそうになったり。夕食に訪れたレストランの音がうるさすぎて耐えられなかったり。

繊細さは、音、匂い、振動など、身体に関わることに限らない。最近も、友人の言葉で、かなり凹んでいた。何気ない一言に過ぎないのに、その言葉が何度も頭の中をこだましていた。

そんな中、お世話になっている方からもらった言葉がある。

卒業式でね、芸術学部長がスピーチで、「芸術家こそが最も早く繊細に変化や社会を感じ、それゆえ社会を変えていく。君たちは他でもない芸術を学び、創るプロセスをやってきた。経済学や経営学でもない、芸術を学んだ君たちこそが社会を変えていく光なんだ」的なことを話されていて、それがすごい心に残ってるんだ。

やっぱり芸術家こそ社会に大きく作用していく社会を映し出す鏡であり、その先の社会を見ている人であるということ。

「それゆえ、芸術家は、誰よりも繊細」

なんだと思うの。時にそれは、孤独とも表現されるのかもしれない。だから作品が産まれるし、産み出すのはとても苦しいプロセスでもあると思うの。怖いよね、いつも隣に怖さもあると思うよ。でもその感性こそ、偽りのない、普遍的な何かに繋がるものだから…。

信じてるというか、心からそう思ってる。私は芸術と芸術家の可能性を信じてる。最も大きな光だって。でもその感性こそ、偽りのない、普遍的な何かに繋がるものだから…。信じてるというか、心からそう思ってる。私は芸術と芸術家の可能性を信じる。最も大きな光だって。

私も救われてきたから。芸術に。表現に。表現する誰かに。

うまくいえないけど、この言葉をもらった時に、本当に救われた気持ちになった。先日、尊敬するアーティストの友人から、どうしてもっと簡単に生きれる道があったはずなのに今の道を選んだの、と聞かれた。

少し考えて、自分が繊細すぎて、今の道しか選ぶことが出来なかったからかもしれない、と答えた。芸術家として生きるとは、そう生きたいという宣言でもあると同時に、そうとしか自分が生きられない存在であるという、ある種、諦めの宣言でもある。

現代社会において、繊細である、感じすぎる、見えすぎるというのは、しんどいことだ。繊細すぎる人は多くの場合、言葉にすることが苦手だし、どれだけ言葉を尽くしても、伝えたいことが伝わらないという体験をする。他者とのコミュニケーションを困難にし、孤立感を抱かせる。

そして、人を、社会を、自分を信頼できなくする。ときに、繊細さを恨み、それを消すべき努力をする。鈍感さに憧れる。しかし残念ながら、繊細さが消えることはない。見ないふりをして、影のように隠れているに過ぎない。何をしていても自分の一部であることに変わりはないし、何をしても、その繊細さは、顔を出してくる。

そんな中、上の言葉をもらったことは、本当に救われた気分になった。最後に、自分自身に対する言葉を残しておこうと思う。

繊細さ。

それは、子供のようなもの。

その子を失うことは、自分の一部を失うこと。あなたがあなたとして生きる限り、その繊細さを抱きしめてあげてほしい。その繊細さは、世界からの声に傷つきやすい子であり、周りを照らす太陽のような存在でもある。

繊細さは、美しさと密接に結びついている。

生まれてきた子を信じるためには、自分を信じることが必要なように。あなたがあなたの繊細さを大事にすることは、あなたから生まれる美しさを信じることを意味する。あなたが他者の繊細さを大事にすることは、その人を通して生まれる美しさをそのままの形で生まれさせてあげることを意味する。

だから、繊細さとともに生きよう。それが、繊細な僕たちに出来ること。

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