芸術、宗教、科学が追ってきた、それぞれの「美」を見ながら。

この世界は、美しいと思いますか。
自然は、生命は、美しいのでしょうか。

あなたは、この質問にどう答えるだろう。

私はよく、生命や世界の美しさ、という言葉を使う。けれど、この言葉に抵抗感を持つ人も多い。美しさという言葉を使われると、むず痒さを感じる人。そんな綺麗ななものじゃないだろ、と怒り出す人。精神世界の匂いを感じて、避ける人。

こういう反応をされる度に、同じ言葉を使っているはずなのに、人によって異なって受け取られている気がしていた。そこで今回、美しさについて言語化を試みることにした。

1) 造形の美:二分論で定義される「美」

1つ目は、「造形の美」だ。これは分かりやすい。あの人は美しい、この作品は美しい、この花は美しい、朝日は美しい、と語るときの「美」だ。英語の、beautiful の意味に近い。

なお、「造形」と書くと、人間が造形したものに限定されるように見えるが、自然の景観も、長い年月をかけてその景色になったという意味を込めて、自然の姿・形も「造形」と表現した。

この概念における美しさには特徴があり、「美しさ」に対比されて、「美しくないもの」が定義されることだ。美しい人と美しくない人。美しい風景と美しくない風景。この場合の美しさの反対語は、醜い / uglyであり、美醜という二分論における美なのだ。

しかし、この概念の「美しさ」を通して、自然、生命の美しさを語ると一つの問題が生じる。それは、「自然、生命は美しい」と語っているにも関わらず、美しくない自然、美しくない生命が存在してしまうことである。

例えば、「生命は美しい」といっているときに、人が人に暴力をふるい、時には殺しあい、戦争を引き起こしてしまうことも包含して、美しさを語っているのだろうか。

更には、「自然は美しい」といっているときに、木々をなぎ倒し、家々を潰す台風を含んでいるのだろうか。たくさんの死者を生み出し街を一掃する津波は、火山はどうだろうか。理不尽なまでの自然の厳しさを直視した上で、自然は美しい、と言えるのだろうか。

つまり、この概念の問題は、自然や生命の暴力性を無視していることにある。自分には何の害も及ばさない、自身の安全領域を何ら侵されない範囲においてのみ、「美しさ」を言っているのだ。言葉を選ばずに言うと、人間の都合の良い部分だけを切り取り、美しさを語ってしまっている

だからこの意味において、「世界の美しさ」という表現を聞いて、「現実を直視せずに、いいところだけを切り取って美しさを語っている」と、忌避感を持つ人がいることも理解できる。

次に、2つ目の「美しさ」に移る。

2) 存在の美:自然や生命の暴力性を内包した、存在全体への「美」

2つ目は、「存在の美」だ。

わかりやすさのために、具体例で説明を試みる。

生まれたばかりの赤ちゃんは美しいのだろうか。美人と美人でない人はいる。では美しい赤ちゃんと、美しくない赤ちゃんはいるのだろうか。

子どもが生まれてくるとき、母親の子宮を通るために、頭蓋骨を細長くして生まれてくる。顔もシワだらけだ。母親はそれまでのプロセスで猛烈な痛みを感じ血を流している。身体中がぼろぼろになる。文字通り「産みの苦しみ」であり、母親の身体の中で起きていることは、「破壊」でしかない。

また、生き物は生き物を食べる。人間だけは他の生物に殺され食べられることは少ないが、他の多くの生き物は、食べ食べられの循環の中に存在している。自分が食べられる。家族が、息子が動物に食べられる。そういった営みもすべて含めて、「自然は美しい」「生命は美しい」と私たちは表現できているのだろうか。

生命も自然も、本来的に、生と死、破壊と創造を内包している。それを「暴力性」と言い換えると、自然や生命の内包する暴力性をもすべて含んだ上での美しさ、それが2つ目の「美しさ」である。私はこれを、「存在の美」と呼びたい。

1つ目の美しさが、二分論で定義される「造形の美」、2つ目の美しさが、存在全てに対する「存在の美」と捉えると、そのあわいに、3つ目の「美しさ」を定義することができる。

3) 営みの美: 世界の秩序さ、調和さに感じる「美」

3つ目の美しさは、<営みの美>だ。

物理学者、数学者は、数式を見て、「世界は美しい」と世界の成り立ちに感動する。どうしてこの世界がこれほどシンプルに説明ができてしまうのか、驚く。数式を見出すことはできても、なぜそれが生まれたのかは、究極、説明のしようがないのである。

なぜ、世界は混沌となる一方ではなく、この地球のような存在が生まれるのか。生命という存在が生まれてしまうのか。福岡伸一氏は、生命の本質を「動的平衡」とよんだが、なぜこの宇宙はいまのように、秩序さ、調和さを有してしまうのか

自然や生命が内包する「暴力性」もその一部だが、この世界はなぜこうなってしまったのか。この世界の営みへの驚きの奥に、神秘さといってもいい、奇跡さといってもいい、美を感じざるをえない。

私はこれを<営みの美>と呼びたい。

まとめ:芸術、宗教、科学が追い求める「美」を通して

3つの「美しさ」について説明してきた。

単純化すると、人類は歴史的に、「芸術」を通して一<造形の美>を探求し、「宗教」を通して<存在の美>を探求し、「科学」を通して<営みの美>を探求してきたのではないだろうか。

どの美しさが正しいのだろうかどの美しさも美しさなのだと思う。わざわざこの文章を書いた私がいうのも何だが、結局、美しさは、美しさでしかないのだから。

そして私は、芸術、宗教、科学を行き来しながら、人生を通して、この「美しさ」を追い求めていきたいと切に思う。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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