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ビジョンとは何か。

僕にとって、ビジョン、とは大事な言葉だ。ビジョンこそ一番大事だ、ビジョンなんてあっても実現できなきゃ意味がない、そんな思考が一周回って、やっぱりいちばん大事なのはビジョンだ、そう今は考えている。

ちょうど昨日、ある国内の大手芸術祭への企画提案資料を提出した。ここで不思議な現象が僕に起きてしまった。それは、その企画のことを具体的に考えすぎて、もはや実現してしまっているような気がしているのだ。

想像すると、どんな空間があり、どんな顔をした人がいて、どんな反応をして、なにを話していて、彼らの人生においてどんな体験になりそうなのか。分からないことだらけだけど、でも、目をつぶるとそれがもう実現してしまっているような解像度で、現実に思えるような形で、そのシーンがありありと見えてしまっている。

単に企画だけで、絵に描いた餅と言われる可能性もあるけど、僕にとっては、もう実現されることは決まっている未来と表現できるかもしれない。ただ、それが今回提案した場になるかは分からないけど、いつかどこかで、似た姿を持って現実化されるのだと思う。

僕にとって、「ビジョン」とは、夜に見る「夢」に近いのかもしれない。夢から目が冷めた瞬間に、現実だったのか、夢だったのかがわからない状態、その感覚だ。「ビジョン」とは、言葉ではないし、ワンメッセージでもないし、絵に書いた餅になりようもない。なぜなら、超具体的に、微細にその瞬間を想像していくと、すべての要素が必要になるから。実装も具体的に想像できないとその景色は見えてこない。

まとめると、私にとっての「ビジョン」とは、次のように定義できるかもしれない。

今はなき未来が、現実か夢か、区別が出来ないほどの解像度で未来が想像できているとき、その「情景」のことをビジョンと呼ぶ。

もちろん、この「ビジョン」とは現実には、「今この瞬間に見える、未来の景色」のことであり、実際には未来のことではなく、今この瞬間のことを意味している。想像することしか見えないとも言える。だから、「ビジョン」は変わりうる。

でも、これが「ビジョン」である。

そして不思議なもので。このくらいの具体性を持って想像してしまうと、それは「現実化」する力を帯びてくる。そして、「ビジョン」という想像上のものが、いつかこの世界に具体的な姿を伴って登場する。

その一連のプロセスを体験できる人のことが、「ビジョナリー」と呼ばれるのだと思う。つまり、「ビジョン」とは未来のことを予想しているのではなく、現実と同じくらいの解像度で想像し、創造できてしまう人のことなのではないだろうか。

追伸:この記事を書いた後に、無性に、「人のビジョンを描きたい」という欲求がむくむくと湧き上がってきたので、こんな取り組みを始めてみることにします。1名限定で。興味有る方はご連絡下さい。


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