「埼玉観光日誌」#6|西川口|河鍋暁斎記念美術館
12月7日(水)晴れ。お昼前に西川口駅に着いた。初めて降り立つ駅。ちょうどいい時間なので、まずはランチにしよう。
西川口の担々麺とチャイナタウン
先ほどチェックして、担々麺が美味しいお店を発見した。駅から2分程度のところだ。ここにしよう。
「永吉」に到着した(写真上)。11:30の開店まであと5分あるが、もうすでに4人待ちとなっている。前に何人か居てくれる方がいいね。
あまり待たずに店内に入れてもらい間髪入れずに注文。
「open sesame !!」すぐに噂の担々麺(880円)が現れた(写真下)。
メニューには「自家製練りごまと自家製ラー油を使用」と書いてある。早速スープを一口。なるほど、ホアジャオ(花椒)が新鮮なんだな。味に深みがあってワンランク上の担々麺に仕上がっている。こういう個性的なお店は好きだ。
店内は思ったよりコンパクトで、夜には飲み屋利用ができるメニューにもなっている。BGMに矢沢永吉の曲が流れていた。
「罪なやつさ・・」
市を跨ぐ個人美術館
食後、目的地である「河鍋暁斎記念美術館」へ向かう。
美術館まで駅から歩いて約20分とある。Googleマップで見てもそれほど複雑な道のりではなさそうだ。しかし、駅を出てから気になっていたのだが、周辺は妙に中華料理店が多い。早速調べてみよう・・なるほど、やはりここは通称「西川口チャイナタウン」と呼ばれている中華街なのだ。知らなかった。説明では観光地化した横浜中華街とは違って、西川口の方は“本物のチャイナタウン”ということらしい。
ちょっとここの見方が変わってきたな。今度は中華料理を食べに来てもいい。
“西川口陸橋通り”を西に向かって歩き、“喜沢通り”に変わると川口市から戸田市に移り変わる。市の境界線を跨いだ。”カリン通り”をしばらく歩くと、美術館に折れる曲がり角に案内表示があった。「喫茶カド」が目印になっている(写真下)。
ちょっと歩くとあった「河鍋暁斎記念美術館」(写真上)・・ここだ。
先ほど川口市から戸田市に移ったが、今立っているこの通りより美術館側のエリアは、何と蕨市なのだ。つまり、蕨市にある美術館ということになる。この辺りは3つの市の境目にある場所だったのだ。
住居が多い区域に忽然と現れる個人美術館は、以前に行った要町にある「熊谷守一美術館」と共通している(現在は区立)。個人美術館もさまざまで目黒にある「久米美術館」はもともとあの一等地だったし、「草間彌生美術館」は現役バリバリのアーティストで新宿区弁天町にあった。作家の知名度やその近親者による運営によって現在につないでいる場合が多いが、なかには経営が大変なところもあると聞く。
さて、河鍋暁斎。
以前、「東京ステーションギャラリー」について調べていた時に初めてその名を知った。昨年の初めに「河鍋暁斎の底力」という展覧会が開催されていたのだ。そして、本稿でも『「東京観光日誌」#32|上中里|旧古川庭園』の大谷美術館内で行われていた「特別展・旧古河邸とジョサイア・コンドル」の展示作品にその名前が出てきた。
あまり知らなかったが、よい機会だ、人物像に近づいていこう。
窓口(写真上)には人がいなかったので、入って呼び鈴を鳴らす。2回ばかり鳴らし間をおいて受付の女性が現れた。体温チェックを行い、チケットを購入(一般600円)。今日は特別展時の料金だったようだが・・何の特別展なんだろう。周りにそれを唄ったポスターは見当たらない。ちなみに特別展時の学生料金等はこのようになっている・・高校生・大学生500円、小・中学生300円、65歳以上の方300円(写真下)(通常(企画展時)はそこからそれぞれマイナス100円の料金)。
ここはもともと河鍋暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美さんの自宅だったところで、美術館に改装して1977年に開館し、ご本人が館長になった。
そんな訳でエントランスホールといっても一般的な玄関の雰囲気が漂う。目の前にはロッカーが設置されている(写真下)。
「では、お邪魔しま~す」という感じで、順路に従って展示室(小部屋)の作品を拝見させていただくことにしよう(写真下)。
「画鬼」河鍋暁斎
説明では全部で3つの展示室があるという。館内はすべて撮影禁止なので、ネットで調べて暁斎について書いていこう。
茨城県古河市に生まれ、6歳の時に浮世絵師歌川国芳に入門している。いろいろ伝説の多い人で、神田川で拾った生首を写生し周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説が有名。
その後9歳の時に狩野派の絵師前村洞和のところへ入門し直し、暁斎の画才を愛した洞和から「画鬼」と呼ばれた。ほどなく洞和が病に倒れ、師家にあたる狩野洞白に預けられる。
狩野派の修行は一般に入門から卒業まで11,2年かかるとされており、そこを暁斎は9年で卒業した。今で言う飛び級の生徒だったわけだ。
その後、土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の画流も広く学び、1855年に起こった安政江戸地震の時に仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「老なまず」(写真下)によって世に出ることになった。
この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第1号であったが、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言い難いものであった。
1858年狩野派を離れ、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博し、錦絵、漢画、狂画等で腕をふるう。
*
第1、第2展示室の作品を観てまわった。
「しかし、やたら骸骨とか妖怪の絵が多いな・・」それもそのはずだった。美術館を出てから知ったのだが、今回の企画展は「逢魔が時-暁斎が描いた妖怪変化-」展、同時開催・特別展は「『暁斎百鬼画談』の世界」展という作品が展示されていたのだ(写真下)。
展示内容は蕨市の行政広報番組の動画がよくできていて。これを観ればこの展覧会の様子がほぼわかる。
美術館にはどうやら私一人だけのようだ。先ほどの受付の女性が現れて、離れにある第3展示室を案内された(写真下)。
暁斎37歳。明治(元年:1868年)に入ってもその画業は衰えることなく、いろいろなエピソードを残しているが、中でも1870年、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして捕えられた。翌年に放免。これが「筆禍事件」と呼ばれているものだ。
1881(明治14)年、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルが暁斎に弟子入り。その後死ぬまで親しい関係でいたようだ。大谷美術館で観たコンドルの作品はこの頃のものだった。
1889(明治22)年、胃癌のためコンドルの手を取りながら逝去。享年58歳。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。
この美術館には3,000点余の下絵・画稿のほか、美術館創設以降、収集を始めた肉筆本画、錦絵など多数所蔵している、と書かれてあった。しかし、小さな美術館のため作品の展示点数には限りがあり、また、日本画や錦絵は長期の展示に耐えられない性質を持っている。そのため、常設展示を行わず、毎回テーマを決めて、2か月に一度、作品を全て入れ替える企画展を開催しているのだ。
確かに、ちょっと物足りない感じはしたが、致し方ない。
美術館の隣はミュージアムショップとなっている(写真下)。こちらも覗いてみよう。
思った以上に暁斎グッズが充実していた(写真上)。ユニークな作品が多いので商品を見るだけでも楽しい。ここはカフェとしても利用できるようになっている。
58歳で亡くなった暁斎だったが、何となく天命を全うした感がある。こういうふうに人生を突っ走ったら本望だろうな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?