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「情報保障」を考えるということ。

ある大学の授業での話です。

その授業は約10名の3年次学生が受講しており、各受講生が今後の卒業研究に向けて関心のあるテーマの論文を紹介してディスカッションするというものでした。聴覚障害のある学生も複数名参加していました。全員1年次から同じ専攻に所属しています。私はいわゆる助言者として出席。

その中で、情報保障支援に関わっている学生が、高等教育機関における情報保障の実態調査に関する論文を紹介する場面がありました。手話ができない学生もいるので、ディスカッションできるように情報保障も用意されていました。

今回紹介された論文には、明らかに受講生の立場で理解するのは難しい用語などがいくつかあったし、聴覚障害学生が自身の体験を踏まえて読めば論文に不十分な点があることも容易に把握できるものでした。また、他の学生にとっても目前の聴覚障害学生の体験事実とこの論文で主張されていることとの関連について問うことができるチャンスでもありました。受講生が質問や意見を考えるのが難しいようなレベルの論文では決してなかったのです。

ところが、いざディスカッションとなると、遠慮してるのか、顔を伏せたり周りの様子を窺ったりしてなかなか質問や意見が出てきません。聴覚障害学生は、自身の体験を資源にして論文の不備不足を指摘しようとしません。他の学生も、目前の聴覚障害学生に論文と体験との関連を聞かないのです。とりあえず、それぞれが自分のわからない用語の意味について質問し、発表した学生が回答してそれで終わります。こうしてなんとなく当たり障りのないやりとりが続きます。そのやりとりを支援学生が一生懸命情報保障をしています。そして、しばらく沈黙になります。

「情報保障」に関わる当事者が何名も参加している授業で、「情報保障」がテーマの論文が紹介されているのに、各々が「情報保障」体験と関連付けて疑問や不明なことをあまり出さず、用語の意味を確認することに終始し、支援学生はそのやりとりを一生懸命「情報保障」しているわけです。なんとなく奇妙で虚しさも漂う風景でした。

それで授業の終わりに私から次のようにコメントしました。

今回紹介した論文は、情報保障に関するものでした。皆さんにとって情報保障は身近なテーマでしょう。日頃の情報保障活動をめぐって疑問に思ったりどうすればよいか考えることがありますから、その意味で今日は情報保障についてお互い議論できる機会といえます。それなのに、聴覚障害学生も他の学生も、お互いに突っ込んで議論しようとしない。もっと言えば、本来、この授業は、お互いが疑問や意見を出し合ってそのテーマに関する議論を深めることで、自分の卒業研究の構想に生かすのが目的です。そのために皆さんはここに集まっているわけです。そして聴覚障害の有無にかかわらず皆さんがその目的に到達するために、情報保障をつけているわけです。ところが、皆さんは「これがわからないよ」ということさえなかなか言いません。「情報」の保障はついているのに、お互いに疑問や意見などの「情報」を出し合おうとしない。これはどういうことなのでしょう。何のために「情報保障」を利用しているのでしょう。何のためにお互いここに参加しているのでしょう。このままでは、皆さんが「情報保障」について卒業研究しても、その内容は空虚なものになってしまうように感じます。

受講生の皆さんはどのように受け止めたのかわかりませんが、「情報保障」の体制整備が全国の大学に拡がっている一方で、今回の体験から「情報保障」を使うとはどういうことかといった哲学的思考が学生たちの間で停滞しているのではないかと危惧を抱きました。

それからは事あるごとに、学生たちに「情報保障は何のためにある(する)のですか?」と自ら思考を深めてもらうような問いを投げかけるように心がけています。