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聴覚障害当事者の「視覚」の話。

聴覚障害当事者は、聴者とは違って、視覚への依存度が高い傾向があります。それにもかかわらず、聴覚障害当事者の「視覚」はどうなっているのかをとりあげた文献はあまりないのです。聴覚障害当事者といえば、聴覚に障害があるということで「聴覚」に関心が向けられがちです。それで、聴覚障害関係のテキストを見れば「聴覚」のことは載っていても「視覚」のことは載っていないのです。

そこで、ここでは、聴覚障害当事者の「視覚」に関心を向けて、聴者のそれとどのように違うのか見ていきたいと思います。おそらく両者とも視覚に障害がないのだから、同じなのでは?と思うでしょう。しかし一方で、日常生活や職場などの場面で、聴覚障害当事者は視覚が優れていると言われることがあるのも事実です。例えば、いつもと違う風景に何があるのかを見つけるのが得意とか、周辺で何か動いたときにすぐ反応できるとか。聴覚障害当事者が聴者より優れていることが研究で明らかになっている「視覚」の1つとして「周辺視野」があげられています。

まず視野について説明しましょう。

1.人間の視野

人間は、両目合わせて左右100~110度を見ることができます。そのなかで明確に見える領域の視野は約5度であり、これを「中心視野」といいます。詳細を把握したり色を識別したりするために使う視野です。そして、中心視野以外の領域の視野は「 周辺視野」といい、全体のあらましを把握したり物の形や時間とともに変化する視覚情報を識別するために使う視野です。

例えば、野球のバッター選手の視覚能力の活用について次のようなことが明らかになっています。

熟練しているバッターは、ピッチャーが投球動作を予測して投球する腕が振られると予測する位置にあらかじめ視線を固定させ、中心視野をその腕の肘近辺に固定しながら、周辺視野は投手像全体の把握に使っている。一方で、経験が浅くまだ熟練していないバッターは、投手の頭部に中心視野を向け、周辺視野は下半身まで幅広い範囲にわたって向けている(加藤・福田, 2002)。

このようにある対象から視覚的に必要な情報を抽出するために、人間は、中心視野と周辺視野を使い分けているわけです。

2.聴覚障害当事者の周辺視野

本題です。聴覚障害当事者の周辺視野が聴者より優れているというのはどういうことでしょうか。

例えば、深間内ら(2007)は、生まれつきの聴覚障害当事者と聴者の眼球運動を観察する研究をしました。聴覚障害当事者群と聴者群(各10名)でひとりずつ、ある図(標的図)をしばらく見てもらった後に、その図とごく一部異なった別の図(呈示図)を見てもらいます。その時に人がどこを見ているのか観察できるアイマーク・レコーダーで両群の眼球運動を解析したら、聴覚障害者群の方が視覚情報の形状や変化に対する反応が聴者群よりも有為に高いことがわかったのです。つまり、「聴覚障害当事者は優れた周辺視野をもち、限られた時間内にできるだけ多くの視覚情報をインプットしようとする表れである」とのことです。

また、Bavelier, Tomann, Hutton, Mitchell, Corina, Liu & Neville(2000)は、機能的MRIを用いて脳の動きを観察する研究をした結果、生まれつきの聴覚障害当事者が周辺視野を見た時に後頭葉皮質(第1次視覚野)の活動が健聴者の約2倍に増加することを明らかにしました。つまり、生まれつきの聴覚障害当事者は、周辺視野で得られた視覚情報を脳で処理する作業を聴者の約2倍も活発に行っていることがわかったのです。

さらに、ネコまで聴こえる場合と聴こえない場合とではどう違うのかを調べた研究(Lomber, Meredith & Kral, 2010)があります。

無33題

生まれつき耳の聴こえないネコは、耳の聴こえるネコよりも優れた周辺視覚と動体視力を持つことを確認されたのです。方法は、耳の聴こえないネコの聴覚野にある末梢聴覚系に関与する部分を冷却すると、ネコの周辺視覚の能力が低下し、聴覚障害のないネコと同等になりました。また、音の聴こえる方向の検知に関与する脳の部分の機能を停止させると、動体視力が聴覚障害のないネコと同等のレベルまで低下したのです。聴こえないネコの脳で停止させた部分は、視覚を司るところではなく、聴覚を司るところです。聴こえるネコより高かった周辺視覚と動体視力が、聴こえるネコと同レベルまで低下したわけです。この研究から、聴覚障害当事者の視覚が聴者より優れているのは、本来聴覚をつかさどる脳細胞が視覚に割り当てられるためではないかという仮説が出てきました。なお、こうした研究の結果が出たのだから、視覚に割り当てる前に早く人工内耳を挿入したほうがよいのではないかと、人工内耳の治療の成功率を最大化させる方向で議論がなされています。手話やろう者の存在を踏まえ、生命倫理や多文化共生の観点からも、人類のためにどのように活かすかについてなるべく医学モデルに偏らない議論が必要でしょう。しかしそれにしてもどうやって聴こえないネコを見つけたのでしょうね。

さて、このように研究者が聴覚障害当事者(ネコも!)の「視覚」について研究してくださったおかげで、聴覚障害当事者の視覚が聴者より優れていることがわかってきたのです。

このように周辺視野が優れていることは、聴覚障害当事者にとって強みの1つといえるでしょう。

周辺視野に関するエピソードといえば…、ろう学校幼稚部に勤務しているろうの教員の話によれば、幼稚部の子どもたちは、草むらのなから類似色をしているバッタを見つけるのが得意で、聴こえる教員もすごい!と感嘆しているそうです。また、外国の事例で、警備会社が複数の監視モニターから異常を検出する部署で聴覚障害当事者の方が好成績を残しているため、聴覚障害当事者を積極的に採用し、同部署に配置しているというニュース記事があったとのこと。

コラム「視覚と手話」
日本語とは異なる言語体系を有する視覚言語である「日本手話」には、/ 目 高い /、/ 目 安い /というふうに視覚能力の高さも表す手話語彙があります。「目」や「視覚」にまつわる手話表現はバリエーションに富んでいます。例えば、手話でおしゃべりしている時にろう者が他のろう者たちに/ 黙れ!/の手話を口ではなく目のところで表して伝えることで(手話で話すのをやめろ!)と目で話す会話の特性をユーモアに転じたものもあります(木村, 1998 )。

3.「視野」をめぐる困りごと

一方で、聴覚障害当事者が「視野」を活用することについて、聴者に理解されにくい困りごともあるのです。

例えば、聴覚障害当事者は、周辺視野が優れているために、講演や授業の間に関係ないものが視野内で動いていると、気になってしまいます。聴者にとって聴覚的なノイズが気になるのと同じように、聴覚障害当事者もまた、視覚的なノイズが気になるのです。これが1つ目の困りごとです。ですから聴覚障害当事者の立場も考えて、聴覚的にも視覚的にもノイズの少ない環境を整備する必要があるわけですね。例えば、講演や授業の機器セッティングなどで前に出る時、聴講している聴覚障害当事者の視野内に入る場合は、あまり動き回ったり手を動かさないようにし、腰をかがめて対応するように心がけることです。なるほど、これは目から鱗ですね。

それから、周辺視野を使うとは、眼球を動かすということです。場面によっては、聴覚障害当事者と聴者の「眼球」の動かし方が違っていて、聴覚障害当事者が困ってしまうこともあります。

ここで、人間は、眼球をどのように動かしているのかを見てみましょう。

眼球運動

図を見ると、眼球を上下や左右に動かすための筋肉の束が眼球についていることがわかるでしょう。上直筋、下直筋、内側直筋、外側直筋、上斜筋、下斜筋の6種類があって、それらをまとめて「外眼筋」と呼びます。上直筋と下直筋は、眼球を上下方向に動かします。外側直筋は、内側直筋と協働して眼球を水平方向に動かします。上斜筋と下斜筋は、眼球を回転させるのに使います。それぞれの筋肉が眼球の特定の方向へ動かすために収縮しているわけです。ちなみに、眼球内にある筋肉は「内眼筋」と呼びます。

周辺視野は、中心視野(約5度)を除く左右100~110度に向けられています。聴覚障害当事者の周辺視野が優れているのは、おそらく、眼球運動を聴者よりも速く動かしている、つまり眼球を動かす筋肉をフルに動かしているのでしょう。ある意味、瞬発力が半端ない「目」を持っているともいえそう。しかし、もし何度もフルに動かし続ける状況が続いたら…? 

ここで例えば、講演や授業をイメージしてみましょう。聴者は、スクリーンや黒板を見ながら話者の話を聞くことができます。つまり、話者が指示するところに中心視野を向けて(周辺視野はあまり使わず)、話者の話に傾注すればよいわけです。視覚情報と聴覚情報の「同時的受信」が前提されています。もし聴覚障害当事者も聴くことになった場合、手話通訳や文字通訳が配置されます。聴覚障害当事者にとっては、視覚情報が複数になり、各々の情報を、交互に、あるいは順次に、見る必要になります。つまり、複数の視覚情報の「継時的受信」ですね。そうなると、発信される情報の「量」は同じであっても、この情報を受信するために要する「時間」は異なりますよね。

ところが、聴者である話者が「同時的受信」を前提にスクリーンなどを見せながら話したとしましょう。聴く側の聴覚障害当事者は、できるだけ「継時的受信」を成功させようと、その場にいる聴者よりも文字通り激しく眼球運動を動かして複数の視覚情報にあちこち注意を向けないといけなくなります。それが1時間、2時間も続いたとしたら…。いくら周辺視野が優れていても、さすがに疲れてきますね。コリも出てきます。回復するために目をつぶったり寝たりしたくなることも。これがもう1つの困りごとです。

もし話者が「同時的受信」だけでなく「継時的受信」をする人もいるのだと考えて「同時的発信」から「継時的発信」に変えたり、複数の視覚情報をなるべく同じ場所で提示したりすれば、聴覚障害当事者の見る負担は多少軽減されるでしょう。私も、あちこち視覚的に注意を向けたりして目が疲れた時は、少し目を休める時間をどこかで作っておいたり聴者に「ちょっと目をたくさん動かして疲れたから休みますね」と伝えたりしています。

4.「視覚」文化の相互理解

このように聴覚障害当事者と聴者は、同じ「目」を持っていても、「視覚」は違うのです。さらにいえば「視覚」を用いる文化も違う。ですから、それぞれの「視覚」文化を理解し、負担少なく心地よく参加できるような状況を共創することが大切になるのではないでしょうか。


引用文献

加藤貴昭・福田 忠彦(2002)野球の打撃準備時間相における打者の視覚探索ストラテジー. 人間工学, 38(6), 333-340.                                                     深間内文彦・西岡知之・松田哲也・松島英介・生田目美紀(2007)聴覚障害における視覚情報処理特性-アイマーク・レコーダーによる眼球運動の解析-. 筑波技術大学テクノレポート, 14, 177-181.
Bavelier, A. Tomann, C. Hutton, T. Mitchell, D. Corina, G. Liu & Neville, H. (2000)Visual Attention to the Periphery Is Enhanced in Congenitally Deaf Individuals. Journal of Neuroscience, 20 (17) , RC93.           Lomber, SG. Meredith, MA. & Kral, A. (2010)Cross-modal plasticity in specific auditory cortices underlies visual compensations in the deaf. Nat Neurosci, 13, 1421–1427.                        木村晴美(1998)手話で表されるユーモア. 月刊言語, 27(4), 72-77.