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「責任」とは何だろうか。

巷で「自己責任」というコトバが流行しているようです。

このコトバが行き交う状況に、私は非常に違和感を覚えます。「自己責任」の意味は、前後の文脈から推測するに、自身の行動によって生じた過失の場合だけ自身が責任を負うものだ、ということらしいです。

しかし、これは「責任」の意味を抑圧する側が断片的に都合よくとりあげたものであり、しかも「責任」とはその人自身の内に閉ざしたものだとみなしているように思います。

果たしてそうでしょうか。例えば、J・F・ケネディ大統領の就任演説のことばを思い出してみましょう。

そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国があなたのために何かをしてくれるかではなく、あなたがあなたの国のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。

責任を、英語で”responsibility(リスポンシビリティ)”といいます。”response”は応じるという意味です。”responsibility”は、応じることができるという意味になります。他者あるいは社会からの請い、願い、求め、訴えに対して、こちらは応じることができるよ、というわけです。そういった意味を持つ英語だからこそ、ケネディからこのように力強いメッセージを持つことばが発せられたのでしょう。

英語の”responsibility”には、他者あるいは社会とのつながりのなかで自分はどう生きるのかを問うているものがあると思います。

しかし「自己責任」には、そうした意味が感じられにくいのです。しかも、あなたはいけないことをしたのだと人格まで攻撃するかのように残酷で冷徹な響きが感じられます。何も英単語の意味に倣うべきだと言いたいわけではないのです。ただ、そのコトバによって、他者あるいは社会とのつながりが捨象され、あたかも自分一人で勝手に請い、願い、求め、訴えはこうだと思いこみ、勝手に応じようとしているのだという文脈が生成されてしまいそうで危惧を抱くのです。

安易に「自己責任だ」とラベルを貼る前に、その人がどのような他者あるいは社会とどのような対話(dialogue)をしたのか、そしてどのように応じようとしたのか、といった文脈(プロセス)に目を向けてみることを考えることはできないでしょうか。

この文脈から、その人の行動の本質を理解する糸口を見いだせるのではないかと思うのです。そして、その人が選択した行動と姿勢によっては、共感したり改めて一緒に考えたり励ましたりといった新たな対話(dialogue)への可能性が生まれることもあるかもしれません。「責任」をめぐる軌道修正につながるかもしれません。

対話と責任との関係について1つ例を挙げましょう。

私はろう者で、両親は聴者です。幼い私を育てている時の心境が母親の手記に書かれてありました。「大人が教えたり評価する(指示・点検)ことで丈は成長する」、「その重要な大人とは私であり、私がどれほど取り組んだかで丈の成長を促したり滞らせたりもするのだ」など。生まれた時からろう者である私をいかに切実な思いで育てていたかがとても伝わってきます。

ただ、手記に書かれてあったように生活のあらゆる場面で「勉強しなさい」「起きなさい」などと指示を出す傾向があり、私もその指示を受身的に待っているだけということが多かったのです。

しかし児童心理学者の平井信義先生の考えに出会ったことで、小学3年の時に育児方針を思い切って変更することにしました。平井信義先生の考えを要約すると、次のようになります。

①「任せる」とは、自分自身の課題を発見し考え、動く「責任」を本人に返すこと。②課題やその解決を一緒に考えていくのであって「放任」することではないこと。③「任せる」ことで、子ども自身が自分の人生に対して「責任」を持つ力を獲得することにつながること。

「自己責任」は、課題やその解決を一緒に考えず、その人にすべてをまかせるという意味で「放任」といえます。そうではなく、他者と課題やその解決について「対話」することで、それを通して子どもが自分自身の課題を発見し、考えて、動く「責任」を持つ、自分の人生に「責任」を持つことにつながっていくということです。

小学3年に育児方針を変更してから両親は「勉強しなさい」など指示を全くしなくなりました。また、生活の様々な局面にぶつかって自分一人ではどうしようもなくなった時に、先回りして指示や結論を言うのではなく、一緒に考える「対話」をしてくるようになりました。こうして私は次第に、自分の人生に責任を持って生きることができるようになったのかもしれません。あるいは、様々な局面であなたはどのように生きていきますか?という他者(自分の中の他者も含む)の求めに対して、私はこのように生きていきますよ、と応じるようになったということができるかもしれません。

このような経験からも「自己責任だ」とラベルを貼る行為は、やはり自分が人のことを理解したり対話することを放棄することにつながるのではないだろうかとも思えてきます。

人との理解や対話の放棄こそまさに「責任」の放棄なのかもしれません。それは「放任」であり、信じて任せるということではないと思います。いま、私たちは「責任」とは何かを問い直してみる必要があるのでしょう。