見出し画像

ダイアログ・イン・ザ・ライト:異なる身体性の遭遇と対話への信頼

先日、ダイアログ・イン・ザ・ライトに行ってきました。

ダイアログ・ミュージアム「対話の森」で行われているプログラムの1つで、長年実施している「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」がコロナ感染拡大によって難しくなったため、期間限定で新たな取り組みとして展開しているものです。このプログラムでは、ゲスト(聴者)が8名で1グループを作ってアテンドを担当する視覚障害当事者と活動するようです。そのように組み合わせでの活動の詳細については、以下のWeb記事で把握できます。

「対話」こそ想像力の源、多様性への第一歩なんだと思う
〜ダイアログ・イン・ザ・ライト体験レポ(文/長岡武司)

  
さて、今回はちょっと珍しい組み合わせのグループになりました。
視覚障害当事者であるアテンドに加えて、聴者1名、中途失聴者1名、難聴者1名、ろう者1名(私)がゲストになったからです。それぞれ異なる身体性を持っているわけで、グループ内では少なくとも世界に対する見方が4通りあることに。一体どんな対話に出会えるのでしょう。ワクワクします。

「ダイアログ・イン・ザ・ライト」では、3つの部屋があり、「ノイズの森」、「夜の高原」、「公園」という流れで経験しました。
ここでは、「ノイズの森」での経験が個人的には非常に面白かったので、私が感じたことも含めてちょっと詳しく説明します。

「ノイズの森」という部屋に入って円形に座り、アテンドからあなたたちにとってノイズとは?という問いかけでスタート。

聴者ゲストは、電話をしているとき「ジジジ…」と聴こえて気になる、といいます。ノイズといえば、自分が関心や注意を向ける対象となる情報以外の不要な情報。その不要な情報が対象となる情報に覆いかぶさってきそうになった時に初めて気になるということなのでしょう。

続けてアテンドは、歩道を歩いているときに周囲があまりにもうるさいと外界の状況がつかみにくくなって困る、と。
視覚障害当事者は、壁などの反響音を手掛かりにして自分と障害物との距離をとらえたり自分の位置をマップで俯瞰するようにイメージしているので、ノイズはそのイメージの立ち上げを妨げるものになるということなんですね。まさにエコーロケーション。イルカやコウモリも、周辺から反射して来た超音波で位置情報などの情報を得て活動していますね。
視覚障害当事者は、聴者よりも「聴覚」を拡張させることで、エコーロケーションを行っている。そうすることで不確実性の多い暗闇のなかで外界における「私」を確定している。ノイズが人間の存在を不確定なものにするほどの力を持っている、というのはよく考えてみれば全くその通りで、ほんとうに面白いです。

そこで、逆にノイズが全く発生しない世界のほうが過ごしやすいんですか?と聞くと、アテンドはしばらく考えて、全くノイズがないというのも困りますね、例えば雪が降る冬がそうですね、と。
どういうこと?と思っていたら、雪は音を吸収してしまうから、自分はどこにいるのかわからなくなってしまうと。毎日雪が降ってばかりでは「私」がつかめないモヤモヤをいつも感じてしまいそうです。では雪が降っていて外出するときにどのようなワザというかどんな工夫をしているかというと、「自分は福岡生まれなのであんまり…」と申し訳なさそうにクスッと笑う。むしろ雪国育ちの視覚障害当事者のほうがいろいろなワザを編み出しているそうです。自分の身体で自分が生まれ育った世界と対話することで、サバイバルできる身体性を立ち上げるのだ、ということが見えてきました。いつか雪国育ちのアテンドにも聞いてみたいものです。

さて、ここまで語られたノイズとは、受容感覚から見れば「聴覚的なもの」。その聴覚をあまり使わない身体をもつ聴覚障害当事者にとっての「ノイズ」とは? やはり「視覚的なもの」になります。視覚障害当事者の「聴覚」が拡張しているように、聴覚障害当事者の「視覚」も拡張している。視野の周辺で何か動いているのを検出する役割を持っている周辺視システムがその代表例。目の見える人よりも周辺視システムが発達しているので、聴覚障害当事者である私が何かを集中して見ているときに視野内で何かが蠢いていると、なんだそれは?と気になってしまう。
例えば、ステージだったら視野内でフロアに人とか物とか動いたり現れたりすると、ステージに集中できなくなってしまう。もう「私」でいられなくなるわけです。だからそういう視覚的なノイズを遮蔽するために、自分の手で視野を小さくしてしまうとかワザを編み出して「私」を確定する。
そんな話をアテンドや聴者が「なるほどー」「ほぉー」と興味深く聴いているのを見ていると、お互い「異なっている」という事実をもっと発見してみたくなってきます。

もちろん「異なり」だけでなく「共通する」ところも。異なる身体を持っている私たちに共通するものとして「臭覚的なもの」としてのノイズもあるのではないかという話も出てきました。

こうして、私たちが一緒にノイズの固定観念を解きほぐしつつ、ノイズの本質へ徐々に迫っているようなワクワクがその場に充満してきているような感じです。異なる身体性を持つノイズ研究者全員集合!ですね。

それから、ノイズについてまなざしを反転させて、ノイズが「私」を確定させなくなる作用を持っているのなら、逆に「私」を確定させてくれるのもあるのでは?と投げかけると、アテンド曰く、自分はアパートの1階に住んでいて2階の部屋から下につながっている水道管を流れる水の音がそれだと。その音を聞くと、ああ自分一人だけじゃないんだなと安心できるそうです。それに、水の音であればなんでもよいというわけではなくて、たとえば、ぽたぽたと落ちる水の音だと、もしや自分の部屋で水を流しっぱなしにしてないか、と気になってしまうとのこと。あとは図書館やカフェでのノイズも「私」にとって安心できるそう。目から鱗が落ちることばかりです。

次は聴覚障害当事者の側から。私の場合は、ノイズが全く発生しない世界というと目の前にあるあらゆるものが静止している状態。視覚的にも触覚的にも感知するようなものが一切ない。自分の研究室にひとりでいるときはそんな感じで、ちょっと落ち着かなくなる。だから時々カフェやフリースペースに行く。ただし、アテンドが話してくれたような条件というものもあって、安心できるのはノイズが一方向にそれも直線状に動いている条件。直線状の道路を走る車の動きであったり、カフェの前を1つの直線上で歩行する人の動きであったり。そういうふうに動きが秩序的で安定しているから、視覚的なBGMのように感じられる。もし無秩序的な動きをしてきたら、もうそれこそ何か起こった?!と気になってしまいます。
それから、中途失聴者のゲストは、耳鳴りを24時間ずっと感じていて、当初はそれこそ「私」が確定できなくなるようなノイズとして感じていたそう。そこで、失聴する前に聴いていた音楽の記憶素材とつなげて意味づけしたとのこと。そうして過去と現在とつないで「私」を確定できるようにノイズを編集するという視点もまた非常に興味深く。考えてみれば耳鳴りは経験していなくても別のノイズに対してもそのようにしているかもしれないなと考えさせられました。

他にもノイズをめぐっていろいろな話題が次々と出て非常に面白く、まるでお互い自分や相手について生態学的調査をしているようでした。ほんとうに時間を忘れるほど大変充実した対話空間。「異なる身体性から見えてきたノイズの認識世界」というタイトルの本が作れそうです。
しかも視覚障害当事者、聴覚障害当事者、もちろん聴者も一人ひとりの生態がこんなにも違うわけですから、対話していくうちに「〇〇者」というようなカテゴリーの境界線は意識の外にいってしまいました。ソトから作られたカテゴリーを超えて、多様な身体性を持つ個と個が遭遇した、といえるでしょう。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」では、暗闇の部屋に入っていくことでそこで生じた経験や認識が、その後のアテンドやほかのゲストとの対話の素材になると思います。しかし「ノイズの森」のように、「ダイアログ・イン・ザ・ライト」だと、手話や音声のように「言語」を使って、全員で、雪の降る世界、アパートの1階の部屋、図書館、カフェなど時間や空間を超えて自由に色々な世界に飛び回り、お互いの生態を観察・言語化しては発見したり驚いたりする経験までできることに気づかされました。

こういう形でのソーシャルエンターテイメントとしての対話もあるんだよ、と新たに示してくれたように思います。「ダイアログ・イン・ザ・ライト」は、コロナ感染拡大で「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」ができなくなったための一過的な措置というふうに思いがちですが、もう1つのプログラムとして継続してもよいほど素晴らしいものでした。

また、自分と他者との間に生じた「異なり」を見出すには、「信頼」がとても重要になると感じさせられました。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」だと、暗闇の部屋に入って、アテンドとゲストである自分とでは、世界の見方や世界での振舞い方がこんなにも異なるのかと実感させられる。そうして感じた「異なり」を起点に対話を進めていく。そういう流れだと思います。

一方、「ダイアログ・イン・ザ・ライト」だと、アテンドもゲストも自分の内にある経験や見方を語ることで初めてどのような「異なり」があるのかを見えてくる流れになっているようです。
しかし、もしかしたら自分の経験や見方は語る価値があるのか、語っていいものなのかという不安や自信のなさが出てくるかもしれない。そこで、自分の経験や見方をどう語ったらよいかわからない、相手の経験や見方をどうやって聞いたらよいかわからない、そういう不確実性のある空間で、全員で対話すれば何かが見えてくるんじゃないかと「対話の可能性」を信頼することがテーマになるのでしょう。
お互いにどのような「異なり」があるのか、まるで宝物探しをするようにワクワク目を輝かせて自分の経験や認識を掘り起こして言語化していく。これを重ねていくと、次第に自分や相手だけでなく対話への信頼も深まるように思います。対話とは信じられるものなのだ、という実感とともに。

今年2月にダイアログ・ミュージアム「対話の森」から対話とは何か?というテーマについてあなたのメッセージを送ってほしいと頼まれて作ったのが、以下のメッセージです。終わってもまた宝物が見つかるかもしれない、だから始められる。そういうふうにして対話への信頼が深まることで、異なる身体性を持つ私たちが遭遇することを歓迎し、大切にする文化が創り出されるのではないでしょうか。願わくは、そのような文化が「対話の森」を起点に飛び出して全世界へと広がっていければと思います。

わからないことから始まり、わかることで終わります。そこには驚き、発見、感動があり、信頼も生まれます。そして終わりは、新たな始まりでもあるのです。

画像1

対話とは何か?に対して全国各地から送られたメッセージがこのような形で美しく展示されています。こうした展示には、ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン代表の志村真介さんの説明によれば、次のことを表現しているそうです。

対話によって、互いの既成概念や固定観念が溶けたり変化して、混ざり合うことにより自由になることのメタファーとして、こうして揺らぎながら、違う色のフィルムの重なりで互いの色の変化として表しています。

より多くの人々が「対話」は信じられるものだと大切に思える社会になりますように。