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「ニーズ」を捉える「ものさし」の話。

「ニーズ」は、要求や需要と同じような意味で使われることが多いようです。本来は、人が生きる上で何かをしたいことがあり、しかしそれができず充足できない状態になった時に現れてくるもの、と考えていいと思います。

「ニーズ」が出てきた時に、それがその人が単独でできないことならば、手助けをする人が必要になってきます。ここで問題になるのは、その手助けをする人の「ものさし」のありかたです。

「ニーズ」は、何かをしたいがそれができないでいる人が求めている「イメージ」と、その人を手助けする立場にある人がどのような人になってほしいのかを想定する「イメージ」が重なり合うところで具体的な形となって現れるものが多いと思います。

そうなると、手助けする人は、手助けする人の「ものさし」のありかたに自覚的になる必要になります。「ものさし」とは、難しく言えば「価値基準」です。その人が、手助けする相手にどのような「ニーズ」があるのかを捉えるとき、決してニュートラル(中立的に)な立場ではなく、自分自身の「ものさし」を通して捉えていることが多いからです。

例えば、子どもとの係わり合いの場合。子どもがうまくミカンの皮を剥くことができないとき、係わり手がすぐに子どもの代わりにミカンの皮を剥いてあげたとすれば、その「ものさし」は次のようになるでしょう。“あなたは自分一人ではできないよね。私が代わりにやってあげるよ。そうすればあなたがやりたいことが簡単にすぐ成功できるよ(失敗する体験をさせないようにするからね)。そうすればあなたも喜ぶよね”となり、子どもの「ニーズ」は“代わりに剥いてほしい”ということになるでしょう。

あるいは、そうではなく、子どもの側に“ミカンの皮をどうして剥けられないのか(どうしたら剥けられるのか)を知りたい”という「ニーズ」があると捉えた場合は、その背景に“あなたには可能性があるよ(失敗する体験も成功につながるからね)。これを工夫してみたらどうかな。すぐ成功はしなくてもいいよ。その時々の気づきのプロセスが大事だから。それでも無理なら手助けを考えるよ”といった「ものさし」を持っているということがいえます。

こうした「ものさし」は、周囲からの影響を受けてできるものでもあります。例えば、自分の所属する職場なりコミュニティなり自治体なり何らかの組織体が作った「ものさし」。また、社会的・歴史的に構築された「政治理念(イデオロギー)」や「政策・方針(ポリシー)」のように特定の共同体が作った「ものさし」。手助けをする人のお仕事を見ていると、周囲の様々な「ものさし」との対話や軋轢のなかで自分が納得できる「ものさし」を更新したり、あるいは改めることができず周囲の「ものさし」に従順にならざるをえなかったりする様子がうかがえます。

このように「その人にはこのようなニーズがある(これを必要としている)のではないか」と捉えることは、裏返せば「このような人になってほしい」と手助けをする人の「ものさし」が反映されているといえるわけです。しかし「ニーズ」をめぐる議論を見ると、なかなか「ものさし」のありかたとの関連で論じられることはあまりないように思います。もし自分自身を棚上げして吟味することなく、自分以外の他者や集合体の「ものさし」を無批判的に取り込んでしまったら、手助けする相手の「ニーズ」、さらにはその相手の生きる姿をも捉えるまなざしが曇ったり歪んでしまったりするかもしれません。

だからこそ、手助けをする自分自身の「ものさし」は果たして適切なのか、妥当なのか。このように自分自身の「ものさし」と向かい合って吟味していくことが重要になると考えています。その上で、人の「ニーズ」をどのように丁寧に捉えていくか、自分自身の手助けのありかたをどうしていくのかについても考えていけるようになりたいと思います。