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障害は「不便」?「不幸」?

A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though.

これは、誰もが知るヘレン・ケラーの名言。和訳は「障害は不便ですが、不幸ではありません」。

この名言は、良くも悪くも障害当事者が自分はいかに生きていくのかについて語ることを支配する言説になっているように思います。障害は不幸ではない、ただ不便なだけだ、それでいいんじゃないか、というふうに。現在もあちこちでこの名言を引用して自分の経験を意味づけて語る様子が見られます。

しかし「障害は不便」という言説には、自分が直面する活動の制限や社会参加の制約がなかなか解消されえない状況に対してどうしようもない、お手上げ、といった一種の無力感、諦めや開き直りをどうしても感じてしまいます。

ところで、その名言が生まれてから現在に至るまでの間、「障害」の見方は変わっています。「障害」とは何かについて、福祉の世界を超えて様々な学問の世界で議論されるようになりました。障害学という新しい学問が生まれました。これらの議論を通して、「障害」は障害のある当事者の内にあるものだけを指すのではない、社会や世界との相互作用の結果として現れるものではないか、と考えられるようになってきました。

そして、高齢者・障害者だけでなく高齢者・障害者と係わる(支援する)側もICTのように現代社会で開発された科学技術を活用することで、お互いの間に生じている「障害」の解消や軽減を実現することが可能になってきました。もちろん、制度や様々な環境の整備がまだ進んでいない課題も多く残されています。

さらに、障害があるからこそ新たな価値を生み出したり便利なこともあるという肯定的なパワーを持った議論が障害当事者から出されるようになってきています。例えば、「当事者研究」。「機能障害」そのものが勝手に「不便」のように障害当事者にとって生きにくさを作ることもあります。精神障害で言えば「幻聴」ですね。それで精神障害を中心に様々な障害当事者の間で、自分自身の「機能障害」に関連して起こる苦労の解明と対処法の開発を目指した「当事者研究」が活発に行われるようになりました。そこには、当事者研究をやりたいのなら苦労はむしろあった方がよいよ、と非常に面白い語り方があります。不便も苦労もあった方が逆に便利だ、新たな価値を生み出せるといったパワーを障害当事者から提供されるようになったわけですね。障害当事者と係わる者の関係や価値のありかた抜きに考えない「実践研究」も、そのようなパワーを生み出すアプローチだと思います。

このように障害当事者を取り囲む世界が大きく変わっており、確かに「障害は不幸ではない、それはそうだ、しかしそれだけでなく、障害は不便なだけと言い切れることもできないのではないか」と考えられるのではないでしょうか。

そして「不便」そのものも、自分に障害があるから「不便」になるではなく、障害のある自分と世界(他者や環境、体制など)の相互作用の結果「障害」が起きて、そのために停滞したり困ったりしている状態が「不便」ではないか?と。

障害のない者も「不便」を感じます。例えば、聴者が聴覚障害のある私に音声で話しかけてもなかなか伝わらず困っている。これは聴者が自分の側に私と通じ合える言語、道具や手段を持ち得ていないから「不便」と感じているわけです。そこでもし聴者が日本手話をみにつけたり音声認識技術を活用して文字で伝えたりすれば、私も聴者の話したいことをわかりはじめる。これでようやく聴者が感じていた「不便」が解消されていくわけです。

ただ、「障害」によって生じる「不便」を感じる強さは必ずしも対等ではないことに留意する必要があります。その世界との力関係に大きく影響を受けているからです。誰にでも起こるものなんだ、だからわたしもあなたも同じなんだ、と安易にそれぞれが感じる「不便」を安易に均質化してはならないということですね。

むしろその時々の「障害」はどのようにして起こったものなのか分析したり考えていくことの方が大事だと思います。もちろん障害当事者だけが分析するのではありません。障害当事者と関係する他者とが「共に」分析することが大切でしょう。そして、どうもこのパワーが働いているから「障害」が起こったらしいと見えてきたら、次はそれぞれがどのように工夫して世界と相互作用できるようにしていくかを「共に」考えることがテーマになるでしょう。

国際連合の障害者権利条約では「障害」についてこのようなことを言っています。

前文(e) 障害が発展する概念であることを認め、また、障害が、機能障害を有する者とこれらの者に対する態度及び環境による障壁との間の相互作用であって、これらの者が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものによって生ずることを認め、

「障害」は発展する概念であると考えるわけですね。

それならば、障害者支援や障害者福祉の道を世界的に切り開いてきたヘレン・ケラーの遺志を私たちは受け継ぎつつも、しかし当時の世界を生きたヘレン・ケラーの語りについてそれはどういうことかを発展的に考えてみる必要があるのではないでしょうか。むしろ、もうすでにヘレン・ケラーの語りをどのように更新するのかを考える時期は到来していると思っていいと思います。

さしあたり「機能障害は、不便でも不幸でもありません。障害当事者と世界との相互作用で現れる障害は、お互いに”自分自身で、共に生きる世界”を作る起点になるものです。そうなるか否かは私たち次第です」でしょうか。…ちょっと長いですね。

いずれにしても、どのような価値や方向性があるのか具体的に示した方がわかりやすいかもしれません。あとは、日常生活から学問の場まであらゆるところでこれをどのように具現化していくのか、ですね。