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「ろう重複障害」における教育実践の探求。

松﨑 丈

ろう重複障害。

このことばは、聴覚障害と他の障害を併せ有する状態を指しています。ちなみに、聴覚障害と視覚障害を併せ有する場合は「盲ろう」といいます。

重複障害というと、単純に複数の障害を組み合わせたものとみなされがちなのですが、そうではないのです。障害が重複していることで、一人ひとりに新たに複雑で重層的な課題状況が生まれているのです。

ですから、聴覚障害と重複している別の障害のそれぞれに対する教育が提供されれば大丈夫だという単純な話ではないのですね。例えば、聴覚障害教育専門の教員と知的障害教育専門の教員が聴覚障害と知的障害のある子どもを担当すれば大丈夫だというわけではない。むしろ教員は、一人ひとりに起こっている課題状況の理解と支援のありかたを探求しながら実践することが求められられます。

特に、ろう重複障害に関しては、「ろう」だから手話を使えばよい、手話を使う環境におけばよいとみなされたり、あるいは写真や簡単な手指サインなど単純な手段を使えばよいとみなされたりしがちです。

こうした言説は、一人ひとりに起こっている状況の理解と支援のありかたを探求するアプローチがまだ見えていないことが背景にあるようです。そのアプローチとは、一人ひとりの行動とその時々の周囲の他者や状況の変化の関係を細部まで丁寧に観察し(子どもの行動だけを見てしまうことが多いのが現状ですが…)、どのような状況が起こっているのかを仮定し、必要な支援を仮説して実践し、そこから見えてきたことを省察する、という「教育実践」です。残念ながら現状は、そうした「教育実践」を学び、実践する教員が非常に少ないのです。そのため、ろう重複障害教育はとても難しいという印象を持ち、関心をなかなか持ってもらえないのではと思います。

しかし、そうした「教育実践」でろう重複障害のある子どもたちと係わってみると、教育とは何か、人とは何かを根源から問わずにはいられない瞬間に出会うことがあります。これから紹介する物語は、ろう重複障害教育の「教育実践」を始めた時に出会ったものです。

ある学校に通っていたろう重複障害の子ども。当時は重度の自閉症があるといわれていました。

当時、子どもは、他者に自分を意図的に伝えることばが非常に少なく、誰にも近寄らず常に警戒しており、水道がある場を見つければすぐ駆けつけてずっと流し続ける人でした。それで周囲からは、この流し続ける行動を「こだわり行動」とみなし、ともすれば「問題行動」ともラベリングされがちでした。教員もそうした子どもの行動に対してどうしたらよいのか逡巡していました。こうした風景は、おそらく学校現場でよく見かけるものです。私は、その子どもを担当している教員から相談を受けて、初めてその子どもに会いました。そうして私は初めてろう重複障害教育に関わることになりました。

(以下の内容や写真は、個人や学校などの情報が特定されないように配慮しています。)

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初めて会った時は、子どもは校内を歩きまわっていて、私も教員と一緒にその後をついていきました。そして水道のあるところにいって、水を勢いよく流し始めました。そこで、前述した「行動とその時々の周囲の他者や状況の変化の関係を細部まで丁寧に観察」をしてみる。すると、次のようなことが見えてきます。

子どもは、蛇口から勢いよく出る水を、左手、右手と交互に当てています。しかも当てるところは指先であったり掌であったりひとつひとつ。そしてひとつひとつに当てている時間は2秒ほど短く、そしてどの部位に対しても均等に。人差し指の指先に当てると水圧で指先が上下に震える。親指の腹の少し硬いところに当てると、水圧の強さが増し、水が周囲に飛び散る。どうやら、なんとなく、適当に、やっているのではない。子どもは、何か目的を持ってそういうことをしているらしい。

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おそらく子どもは、自分の手の当たる部位を変えることで、同じ水圧から感じるものの違いを探り、確かめているのではないか。研究者として。ただ水を手に当てて楽しむような感覚遊びではなく。それならば、子どもの隣に立って観察していた私は、それで子どもとつながれるかなと思い、子どもと水の対話に入り、手を差し入れて水の流れを変えてみます。そうして「どのような状況が起こっているのかを仮定し、必要な支援を仮説して実践」したのです。

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そうすると、子どもは、一瞬驚いて手を少し引きますが、5秒ほどしばらく私の手を介した水を受けてくれました。しかしやはり本来の流れ方をしている水のほうがいいようで、ただし私の手を強くはらうことはせず、優しく触れ、自分の対話空間から静かに遠ざけることをしてくれました。そしてまた先ほどの活動を続けます。1分ほどそうしていましたが、見ている私にとってはとても長く、静かに時間が流れているように感じました。

やがて、右手で拳を作り、親指のところにしばらく当てています。明らかにこれまでの流れとは違う様子でした。2秒ではない、少なくとも30秒近くは同じところに当てていたのです。

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私は、おそらく水圧と当たる部位との相互関連に関する研究活動はすでに展開し、そろそろ終結しようとするときの表れではないかと仮定しました。「締め括り」ですね。これまで子どもが水を流している時に、手話で/終わり/と伝えたり蛇口を指さすと、子どもは怒ったりパニックを起こすとのことでした。研究活動をしているのにやめさせようとするとは何事か!と。しかし、この「締め括り」を見て、もう終わるんだね、と/終わり/の手話を表し、蛇口を指さすことを今すれば、子どもは受け入れるかもしれないと仮説がふと出てきたので、そうしてみました。すると、子どもの視野に留まっている私の手を優しくはらい、また水に先と同じ形をした右手を当てて数秒後自ら蛇口をしめて、別のところへ向かったのです。

この様子はビデオカメラで記録されており、子どもが水を流し始めてから自ら蛇口をとめるまでの時間を調べたら、約3分間でした。数分間であるにもかかわらず、子どもはどういう人なのか、多くの大切なことを見出すことができたように感じました。「水をただ流している人」ではなかったのです。

その後、教員に、先ほどの場面で私がどういう視点で観察し、どのような仮定と仮説で係わっていたのかを説明し、今後は子どもが水を流しているときは同じような係わりをしてみれば、教員とのコミュニケーションが生まれるのではないか、と提案しました。

それから月日が経ち、教員から感動と嬉しさの入り混じった報告が来ました。あれから何度も係わりを重ね、ある日、いつものように水を流している場面で教員が子どもの世界に自分も入るように手を差し入れたら、初めて子どもが教員の顔を見て、笑みを浮かべたのです。ようやくわかったかといっているようでした。その瞬間、教員は、身震いするほど深い感動に包まれた、と。そして、当時は終わってほしいと一方的に願って使っていた/終わり/の手話も、いまはお互いに納得して一緒に活動を終える「ことば」として共有できるようになったとのこと。教員が子どもを理解したからこそ、子どもは教員の/終わり/の手話を受け入れた。ことばはそういうふうにして共有していくのだと思います。この教員の素晴らしい教育実践は、子どもと教員の間にあった当時の生きづらさを解消し、お互いを信頼する関係へと発展しました。

一人の子どもと一人の教員の細やかで素敵な物語です。

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繰り返しますが、これは、「一人ひとりの行動とその時々の周囲の他者や状況の変化の関係を細部まで丁寧に観察し、どのような状況が起こっているのかを仮定し、必要な支援を仮説して実践し、そこから見えてきたことを省察する」ことによって見えてきた「教育実践」です。

「教育」とは何かを思索すると、今回の物語からは、次のようなことが見えてきそうです。

自閉症とは何か、聴覚障害とは何か、どのような指導法があるか、といった知識や技術を懸命に調べれば調べるほど、子どもの生きづらさの本質や子どもの物語から遠ざかっていき、目の前の子どもの内にある本当に探しているものや本当に必要なものへの扉が開かなくなってしまうかもしれません。

例えば、今回紹介した物語に関して、私たちが、その子どもがなかなか集団活動に参加してもらえないということに「こだわり」、自分たちを棚上げにし、子どもの行動を安易に「問題行動」とラベリングすれば、その問題行動を減少・消失させるための指導法を導入することになります。この指導を受けた子どもたちは誰一人わかってもらえないまま生きていくかもしれません。こうして子どもたちは実に教員や研究者の様々な言説が錯綜する世界に巻き込まれて生きていかざるをえないような経験をしているのでしょう。

作家の小林秀雄はこう述べています。

歴史的見地があるにせよ、心理学的見地にせよ、人間を上から眺めている人は、自分が同じ人間であることを忘れている。その人の立っている場所からは、物がよく言えるかもしれない。が、見えすぎるのである。〔パスカルの〕の『パンセ』が我々をつれて行く場所は、そのような高みではない。パスカルは我々をもっと低い場所へ導く。もっと空気の濃い場所へ。(若松 英輔(2016)小林秀雄-越知保夫全作品. 慶應義塾大学出版会 )

この「もっと低く、もっと空気の濃い場所」こそ「教育実践」の場なのでしょう。そのような場所に実践者としての私を留まらせ、子どもがいかに調整して生きているのか瞬時瞬時に息を潜めて見たり、子どもの行動の成り行きや展開に息を呑む思いで見る。そして、ふっと誘いかけてくる既存の知識や技術に安易に惑わされず、目の前の子どもの生きる姿に即して既存の知識や技術をきちんと溶媒し、本当に必要な教育とは何かをその時その場で創り出す、これこそ「教育実践」の真髄なのではないかと思います。

私は、全国各地からろう重複障害の子どもを担当している教員の依頼を受けて、教員と一緒にその子どもにとって必要な「教育実践」とは何かを探求しています。この探求の過程で、目が死んでいたり疲れ果てていた教員が、担当する子どもについてわかることが増えていくと、だんだんと生き返ったように「教育は面白い!」と子どもとの実践研究を楽しく取り組むようになるのです。教員もようやく「教員」として生きていけると確信や奥深さをつかんだように。しかし、その度によく言われるのは、こうした「教育実践」はあまり聞いたことがなくめずらしい取り組みだ、と。

確かに、ろう重複障害教育の仕事は一筋縄ではいきません。それは、教育とは何か、人とは何か、哲学的に問わないと本当に探しているものが見えてこない仕事であり、目の前の子どもを細部まで丁寧に観察しないと本当に必要な「教育実践」も見えてきません。しかしそこまで見えてきたのなら、きっとろう重複障害教育だけでなくあらゆる人に対する教育全般にわたってより多くの大切なことを得ることができるのかもしれないのです。

なお、これまで多くのろう重複障害の子どもたちに出会い、その時その場に応じた教育実践を探求し、そのうち、手話を身につけていくろう重複障害の子どもたちとの「教育実践」の物語を3つ、以下の論文に所収しました。3つの物語から単に手話を使えばよいのではないということがよくわかるかと思います。また、ここでは詳しく説明しなかった「教育実践」のアプローチについても述べています。学校教員の皆さんと共有したい思いから、教育現場で自問自答しながら実践されている教員にも読んでいただけるようにできる限り平易な表現で書きました。関心のある方はぜひ読んで頂ければ幸いです。

松﨑丈(2018)ろう重複障害児との手話を主とするコミュニケーションの形成を目指した実践研究. 宮城教育大学紀要, 52, 243-259.