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「持つこと」と「あること」-人間性の回復-

ある大学生との対話。

障害のある子どもや大人の支援に取り組んでいるが、うまく支援ができないため、その問題を解消するための知識や技術を教えてほしいといいます。その問題を解消するといっても、その問題に対してどのような目的や価値を根底にするのかは一人ひとり異なります。つまり、ある知識や技術を選択するのは、それを選択してよいのだという何らかの目的や価値が潜在しているのではないか、ということです。

それで私は尋ねます。知識や技術を提供することはできるけれど、あなたはどのような目的や価値を持ってその人と係わっているのですか?と。大学生はそこまで考えたことがなかったように口を噤みます。

これは、学生指導に限らず、学校教員や施設職員と対話するコンサルテーションの仕事でも、そのような場面に出会うことが多いのです。口を噤む大学生の姿から、自分は知識や技術を持つことができればそこで生存できるかもしれないと考えて生きているのだろうかと案じます。

目的や価値は自分の内にあるものです。このように生きたい。このようにするのが大事だ。それが自分の中でしっかりと対話できていれば、あらゆる知識や技術から必要な知識や技術は何かを判断し、それを自分が生きるために溶媒することができるかもしれないのです。そのように仮定して、知識や技術の話はしばらく脇に置いて、目的や価値について大学生が少しでも語れるように少しずつ対話を進めていく。

そうすると、大学生の「生」の苦悩−人間性−が垣間見えてきます。

「過去に相手に不快な思いを与えてしまったことで苦しくなったから、相手が不快にならないようにうまく進めてしまいたい。」「過去の経験から沈黙してしまうことは悪いことだと思っている。自分も相手も黙ってしまうと悪いと感じてしまうので、楽しくやりとりできる方法を知りたくなってしまう。」「自分が否定されることに恐怖を感じるようになっている。できるなら自分を変えず、文部科学省や学校などが言っていることにそって相手ができるようになる指導法を身につけた方が楽だ。」など。

大学生は、幼少期から様々な他者との対話で、そのような目的や価値について安心して対話する−自己を適切に“カミングアウト”して対話する−機会が充分にできず、逆に自分自身が傷ついてしまい、自分の「目的や価値」を埋没させるような機会を多くしてきたのでしょうか。

このことに関してドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロム(1977)は、このようにいっています。

一方は持つ−所有する−傾向であって、その強さの根拠は究極的には生存への欲求という生物学的要因にある。他方はある−分かち合い、与え、犠牲を払う−傾向であって、その強さの根拠は人間存在の独特の条件と、他人と一体になることによって孤立を克服しようとする生来の要求にある。

大学生は、おそらく周囲との対話によってなかなか他人とつながらなかったり肯定されなかったりされたために、「あること(to be)」への人間の存在様式が脅かされてきた。そしていつしか周囲に期待される知識や技術を「持つこと(to have)」が「人間」として肯定されるものとして重視せざるをえなくなったということでしょうか。つまり、「あること(to be)」への要求が抑圧され、後景化し、「持つこと(to have)」は前景化するようになったということです。大学生は、ある意味、精神的に自分が孤立したまま、期待される知識や技術を以って障害のある子どもや大人の支援に係わろうとしてるのかもしれません。辛いことです。

しかしフロムは、人間性の回復とは、「持つこと(to have)」から「あること(to be)」への人間の存在様式をめぐる価値観の転換であると指摘しています。世界は、人類が「あること(to be)」への様々な存在様式を受け入られるものでありたいと思っています。そう考えると、大学は、「あること(be to)」を棚上げにせずに、「持つこと(to have)」を吟味できる人を育てる使命を果たせばならないのでしょう。

それで大学生が自身の苦悩を語ってくれた後は、自分はどのように生きていきますか? そのような生き方を今後も続けることでそれにもとづいて知識や技術を選択しますか?などと対話します。その対話を深めるために、大学生が係わっている障害のある子どもや成人とのやりとりについても細部まで丁寧に見ながらその時々の行動に潜在する目的や価値は何だろう?と事実に基づいた対話もします。

そうして大学生は、自分なりにその子どもや成人との間で納得できる目的や価値を次第に見出し、既存の知識や技術をどのように溶媒していけばよいのかを考えながら係わっていくようになります。その過程で大学生自身も、自分の目的や価値を肯定したりこれで間違いないんだと確定したりするようになります。この自分でよいんだ。そのように生きていいんだ。自分がそこに「ある」ということを許したり受け入れたり納得したりできるようになるわけです。

そうなった大学生、学校教員や施設職員の目を見るとよくわかります。生き生きとしているんです。

こうして障害のある子どもや成人だけでなく、大学生、学校教員や施設職員も変わっていくわけです。これがフロムのいう「人間性の回復」です。そのように対話する文化が大学や世界に広がってくれたらいいなあと思います。