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「実践」というコトバ。

学校の世界で、そのコトバが安易に軽く使われているように感じることが少なくありません。また、そのコトバをつければ、自分の行っていることがなんとなく格調高いものになるという錯覚があるようです。

そもそも「実践」とは何でしょうか。

「実践」の意味を紐解いてみます。辞典によれば、「実」は「物事の内実・草木のみのり・まこと」、「践」は「足を地につけること・踏み行うこと」をいいます。さらに、その「実践」に対応するギリシア語の「praxis」では、「ある目的を志向し、実りをもたらす実行活動」という意味があるのです。

つまり、「実践」とは、何かをしているといった「行為」のみをいうのではありません。実践する側が、自身の価値判断に基づいて設定した「ある目的」を目指して、現在の状態(状況)からより良い状態(状況)としての「実り」を実現する活動のことをいいます。

そうなると、主に考えるべき事柄が2つ出てきます。

1つは、その「目的」、それを設定した「価値判断」は、「実践」する者自身の自由意思にもとづいて設定したものなのか、その「価値判断」は社会的かつ倫理的に肯定・決断できうるものなのか、ということです。また、「価値判断」には、その人の経験則や物事の捉え方が潜んでいます。これらも浮かび上がらせて吟味したり、「学問」を通して洗練させる必要があります。

ところが、いわゆる「実践」の報告や論文等を見ると、どうしてその目的にしたのか、その価値判断のありかたについて議論したものがあまりみあたらない。出すまでもない、出すべきではないとでも思っているのでしょうか。あるいは、出せられないのでしょうか。ここに「実践」する者としての”公正”が問われているといえます。

もう1つは、「実り」を実現する前提としての「現在の状態(状況)」は何かということです。例えば、学校における「実践」では、「現在の状態(状況)」について観察するものは4つあります。①子どもの行動、②自分(実践者)の行動、③子どもと自分とのやりとりや関係、④その時々の自分(実践者)の内的体験(認識・感情・判断など)。それと同時に、この「実践」の流れをソトから観察して、その時々の現象に内在する条件と結果の関係を仮説したり、改善・追加する条件を見出したり、計画を立てたりします。その上で、「実り」を実現できたのか、それは①~④及びソトからの観察で把握したこと(条件)をどのように改めたり加えたりしたからなのかを省察します。

ところが、「実践」の報告や論文等を見ると、いつも①のみが抽出され、検査結果と共にその子どものことが紹介されることが多いのです。②~④の観察やソトからの観察によって見えてきたことが書かれていないわけです。「実践」する者の行動やありかたを抜きにし、子どもの行動だけを改善することが「実り」を実現することになると確定しているのでしょうか。その後の「実践」を結果として紹介されても、「実践」に関わる現象が削り取られ、①の変化のみが強調される節があります。子どもについては色々というのに、「実践」する者の至らなさはさらけ出すことに抵抗があるのでしょうか。ここに「実践」する者としての”決意”が問われているといえます。

ですから「実践」を発表するとは、単に授業(教育)をやりました、子どもはこう変わりました、ということをいうのではないのです。「実践」する者としてのありかたをどのように問うて、どのようにその場で「実践」したのかを全体的にきちんと示す、ということだと思います。

「実践」というものをきちんと体現できる教員を養成する仕事を、私はしなければならないのです。