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自ら発信すれば世界は変わる。

小学3年から中学3年までの6年間、学校で心ない差別といじめを受けてきました。この状況をどうにかして変えたいのになかなか変わらない不条理な現実にもがき苦しみ、中学3年の弁論大会で決意してもがき苦しんできた6年間の経験を率直に語りました。そうしたら学校でのいじめと差別は嘘のようになくなり、さらに集団会話の内容を伝えてくれたりその時に流行っている面白い話し方を教えてくれたりして皆とよりつながる経験が増えました。自ら発信すれば世界は変わる。そういうことを確信できたのです。この確信は、それ以降の人生を生き抜く原動力になれています。

以下の文章は、その弁論大会で発表した内容全文。当時と現在とでは使う用語が変わりましたが、皆さんにわかってほしい内容の本質は現在と大きく変わっていないと思います。

「障害を見つめて」 
                 別府市立北部中学校3年生 松﨑 丈
 最近、障害者に対する偏見が原因でいろいろなトラブルが起きていることが新聞やテレビで報道されています。障害者は健康な体の一部を失ったために、自分で行動できる範囲が限られています。その結果、進学や就職で時々障害者にとって残念なことが起きています。例えば、ある足の不自由な中学生が普通の高校に進学できたので当人が普通学級に入れるようにしてくださいと頼んだが、その翌日半ば強制的に特別学級に入れられてしまうという事件がありました。僕ははっきり言って悔しいです。どうして障害者を普通学級に入れてはいけないのでしょうか。その中学生は私を当たり前の人間と見てくださいと訴えていました。体の一部の機能がうまく働かないということがそんなに普通の生活に邪魔なことなのでしょうか。
 僕は、小学3年生の頃友達と遊んでいる時に自分は障害者だという自覚をだんだん強くもつようになりました。それは友達が僕を障害者として扱うようになったからでしょう。そのためによく仲間外れになるようになりました。また、どうせ聴こえないから話しても無駄だというように僕には少ししか声をかけてくれませんでした。あるいはグループを作るとき僕と一緒になった友達は僕の顔を見て嫌な表情をするし、僕の耳が聞こえないから僕がわからないと思うのが邪魔だ、どっかいけとか死んじまえとか言うのです。何度耳のことで悪口を言われたかしれません。とにかく嫌になること、つらかったです。ある時は、死にたいとも思いました。もし僕がいなくなれば、友達は邪魔な奴が消えて嬉しいと思うだろうと問い詰めました。しかし、その時は涙が出るのをこらえて唇をかみどうしようもないイライラを抑えていました。そして僕は友達を殺したいほど憎みました。そのころ僕は友達とはあまり話をしなかったので、自分で自分を責めるしかありませんでした。まるで一人だけ取り残されたような気分になり、何度も頭が痛くなるほどに悩み続けていました。生きたいと心の中で叫んでいたこともありました。僕を救ってくれる友達が今いないと思っていました。ただ自分で解決するしかありませんでした。長い間孤独に耐えていました。
 しかし、その間に僕の心の中でわずかな希望が少しずつ膨らんでいるのを感じました。そしてついに生きる希望が見つかりました。それは友達と共に生きることでした。その答えは中学2年になってはっと見つかったものでした。それは偏見に打ち勝つ源でした。これからもいろいろな問題があるかもしれないけれど、健聴者と共に解決するんだという思いを強くもてるようになりました。差別されていた僕は、その時健聴者の友達の中に入りたいと思っていました。みんなが楽しくふざけて話しているのをうらやましく思いながら生きていました。しかし、今は違います。友達は僕を差別の目で見ていません。むしろ僕の耳のことを親身になって心配してくれる友達がいます。また僕に先生が話したことを教えてくれたりしています。友達が僕のために耳の代わりになって助けてくれています。僕は本当に生きていてよかったという喜びにあふれています。もし友達がいなければ偏見に打ち勝てることはできなかったでしょう。だから今は友達に感謝しています。
 偏見との戦いは、僕にとってとても厳しい試練でしたが、素晴らしい結果をもたらしました。障害者というのはできないことがたくさんあるものです。障害者たちは健常者の協力を必要としています。障害者たちができないことを代わりにやってもらうしかありません。健常者と協力し合って障害者が自分でできるようになることが障害者たちが一番望んでいることなのです。僕は、僕の経験を話すことで健常者に障害者の苦しみを理解してもらえたらうれしいです。そのためにも障害者と協力し合うように健常者とのふれあいをやっていこうと思います。


弁論大会の様子