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客観的感覚との出会い - 8年前に描いた世界を追い求める旅路の途中。第二話

正月気分がなかなか抜けない一月中旬「まだまだ遊び足りない」僕の浮かれた心とは裏腹に、街には閑散とした静かな夜が訪れている。

あの年末年始のお祭り騒ぎもどこへやらと言わんばかりに "祭りの後の切なさ" の様なモノが、冬の北風をより一層冷たく感じさせています。

月が煌々と輝く冬の静かな夜。

そんな、あの頃と変わらない夜の街並みを一人歩いていると、何故か脳内には "あの頃" の映像が甦る。

本記事では、30歳でやるべき事。と設定したお話にしようと思ったが、その前に僕という存在と、30歳からの旅を描くきっかけとなった事なんかについて記しておきたいと思います。

僕が住んでいるのは、大学入学の為にやってきた名古屋という土地。気がつけば今年で20年目。僕のこれまでの人生において一番長く住んでいる愛すべき街だ。

名古屋に住み慣れ始めた20代の頃は音楽活動でメシを食わせて頂いていた。その活動を通してテレビにレギュラー出演させて頂いていたり、国内外の様々な土地に呼んで頂いたりしていました。

その事実が、内から湧き上がるような自信を生み出し、また「自分は特別な才能をもった人間なのでは?」という過信をも生み出してしまいました。

そのような好きな事だけをやって、ちょっとチヤホヤされて、あまりお金の事を考えなくても良いという...僕の視野で見えるミクロな範囲の世界での順風満帆、何不自由ない生活を送っていた時、とある大先輩から言われた一言が今も心の中に残っている。

「今、ガンガン上手く行ってて、自分が全能な人間であると感じてたりするんじゃない?でも良い事も悪い事も一生続く事はないからな。特に良い事は終わるの早ぇーぞ」と。

しかーし、若さ故か、アホな性格故か、正直その時は何も心に響かなかった。寧ろ「は?何を言ってるんですかい?俺ですよーッ!このまま上がり続けるだけでしょうがーッ!」なんて思っていたのを覚えています。今振り返れば、自信が過信に変わり驕り高ぶっていたのでしょう。

思い出すだけで恥ずかしーッ
キャーッ( ;´Д`)

まぁそれから数年後、大先輩の言葉は現実となって目の前に訪れる訳ですよ。仕事が激減していたのです。今思えばそりゃそうだ!な話。

恥ずかしながら、そこで初めて僕は気づく訳ですね。"自分の実力で勝ち取っていた気でいた仕事と、その仕事に対する報酬" はぜーんぶ周りの方々から頂いていた事を。

反省、猛省、大反省の毎日。
仕事があまりない変わりに
時間はたっぷりある笑
考えた。考えた。

何故こうなってしまったのか?真剣に考えた毎日。その問いの答えは結局見つからなかったけれども、考える日々の中である感覚に辿り着いた訳です。

そう。表題にもある客観的感覚だ。

より正確な言葉で記すと『全ての物事に対して限りなく客観視する事が、本質に近いものがクリアに見える』ということ。

即ち逆説的に記すと『物事の本質に近いものをクリアに見る為には自分の主観は限りなく不要』ということだ。

例えば、他の人より才能があるかも?とかんじている人間がいるとする。その人は、周りの人間に対して才能を感じない"別に何者でもない人間"と捉えていたとする。

・主観で考えると、俺やっぱすげーじゃん!となる可能性が高い。

しかし、これを客観的角度から考えたとき...導き出される結論はまた異なるのでないだろうか。僕の場合の客観性から導き出されたのは、以下の通り。

・他者を才能ない何者でもない存在と考えてる

・何者でもない存在と設定した人間から頂く仕事で生活をさせてもらっている。

・何者でもない存在と、そこから頂く仕事が無ければ生活していけない。結局そんなヤツこそが一番何者でもない、ちっぽけな存在なのではないか?

そう結論に辿り着いた訳です。

うおおー、結局、俺が一番ショボい人間だったやーん!パヨパヨーん🐘💦

文字にしたら何と当たり前の事を...という事にすら気づく事なく自己本位に生きていた20代前半〜中盤。

自分が!俺が!と、自分のミクロな脳みその中の感覚だけを信じて虚勢を張っていただけで、

ふと周りを見渡してみたら結局の所は周りの方々に生かされてきていただけじゃんかーッ!と気づいた訳です。

自分の無力さと、器の小ささ、愚かさに気がついた時、どこかスーッと垢が取れたかのようにスッキリした自分がいた。この時27歳。

まだ僕の頭には何も描かれていない時のお話。

次回につづく

次回 : 自分こそが一番ちっぽけで何者でもないと悟った男の逆襲。

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