懶惰の粋

あー まあでも大丈夫じゃない?それ半分くらいの人が落ちる試験だし

「虚実入り混じる」というのは嘘である。説明をする気さえ起こさない。端的に言ってそうなのである。そもそもそんな都合のいい話など最初からあるはずがないのだ。虚と実と、それが入り混じったやつと、そんな簡単な構成で本当に足りているというのなら、あなたはお蕎麦屋さんの中で迷子になってしまうことだろう。それはお蕎麦屋さんとて例外ではないが、そのようにして感覚に引き裂かれながら店を守っているからといって、つゆが特別に美味いということでもないらしい。人はこのことを「深み」と言って、部屋を片付けるように店を後にする。

それは一種のプロトコールだからね

人生一回きりなんだから、めいっぱい楽しまなくちゃね、と初めに言った人がいる。たとえばチャHで被害に遭うような体験は、このような態度の末節にあるといえる。多くの場合、潮干狩りの記憶は捏造である。それはわれわれのDNAであるらしい。ほかの条件が同じであれば通勤快速が停まる駅周辺のほうに家賃の軍配が上がるのと似ている。家賃のおもしろいところはこれで、通勤快速が停まらない駅と書いても実はよかった。骸骨のコミュニティには全員が共有できる真っ白の器がある。実際を確認することがないので、共有「できる」という含みにしておいてある。

彼は勝手に税率を引き上げることができる

心臓を地面にくっつけると分かることがある。滝を見た帰りにはバスが混む。バスが混んでいるぶん道が空く。それ以外のことに目を瞑ってこう言ってしまえるのは、道路と言語こそが、人間が用意できる最も簡単な造りのものであるからなのだろう。これだってそうである。仏教徒の中には厚紙の存在を恐れている者がいる。都心に多いという。タクシーの台数とちょうど同じだけあるものを見つけなくてはいけない。宇宙空間ではもうそういうことになっている。あれは左手と左手を繋いで歩くカップルだった。犬に挨拶をしていた。犬のほうから挨拶をしているようにも思えた。2人とも顔が変になりながら大切なことを忘れていった。心が広いふりをした人間はそういうのが自然だと言う。あるいは普通だと言う。信心が足りないからそんなことになる。もう遅いと心のどこかで思うのもほとんどそれである。

改題・フィルターバブル篇

フィルターバブル篇という文章を書いたことがある。当時は段落を気にしていたらしい。結構なことではある。内容はといって、それほど筋悪でもないだろうと思う。もちろん現在の感覚では同じように捉えるのは難しいという部分がある。みんなに会いたいと思うことはあるけれど、それを表に出すのであれば顔がバカになるか、あるいはぐにゃぐにゃになりながらそうしなければならない。改題とは、少なくともその謂である。実際の行為にはそれよりもっと複雑なものなんかがついてくるかもしれない。下半身から上半身へと順番に(逆はありえない)ズタズタに引き裂かれながら笑顔でいたり、軸が半分くらいズレた状態でくるくる回りながら帰っていくということがあっても不思議ではない。さりとて最近は、「何かを言う」と「ある/ない」で文章を作ったりするのみである。良く言っていただく必要は全くないが、ナメてもらっては困る。ナメてもらっては困る、で困らないためにも出ていかなくてはいけない場所があったというのに。冷蔵庫の中から俺がゆっくり出てきたらおもしろい。いずれにせよ、そういうことは頻繁ではないにせよあるとき急に起きたりする。手水をイジるノリがあったら神主はあまり休みを取れない。よっぽどというものを除いては夏くらいまで様子を見ますが、よっぽどというものについては心を動かし始める準備をしてみます。ダブスタとかアドホックに回収されない、もっと経時的な事柄を手に入れないと意味がない。そのためには理由が伴う(これは理由を伴わせないといけないとかそういう書き方にもなる)から、からなんだよ。リズムとか見栄とか見栄えとかのために何かを繋ごうとするのは、頭がいつもどおりの場所にあることを示している。ただ個人の悪い癖といえばそれまでだけど、でも置き字を馬鹿にすることはできないし、だから漢詩という通奏低音の響く近代の書き物によく魅入られる。今年入ってからくらいの没ボケ全まとめみたいな作業をゴールデンウィークでできたらいいと考えている。

われわれは殺し合いを腹蔵している

われわれは殺し合いを腹蔵している。用法の正しい繰り返しは効果的である、ともう長い間言われ続けてきたそれらは、とうとう手法の枠組みに押し込まれてしまった。われわれのうち全ての者は、異なる考え方に出会うとき、どんな方法であれ最終的にはこれを殺すのだと感じている。感じていないときにはその時点で既に殺しを働いている。そうでなければこちら側を殺している。決して物騒な話などではなく、いや最後には物騒でもあるけれど、しかし多様性とかいうのは詰まるところこれである。安易な相対主義のことではなく、その現代的理解であるところの価値多元主義に目を向けるとき、このことがよく機能していると分かるだろう。人死にの話ではない。人死にの話に限ったことではないというのがより正確なところでありそうだ。生き方でも考え方でもなんでもいいが、何かが違うぞというお互いの間には、何も見えていないときでさえ最小の武器が〇されていることを忘れてはならない。それは殺しを働くに最小の武器であり、それらはそれぞれの成員間で共有されることがある。いわゆる多様性のこのバージョンにおいて、みんな違ってみんないいと口にする行為は、銃口をどこか顔の適当な部分に当てるのと同じである。ここで引き金の話をしたがるような人間は、枕の右左を気にしてココアのチャンスを逃しているような連中と一緒にしておけばいい。はっきりと見えるかたちで人死にが出ていないと思うとき、武器や使用者の暗躍を疑うことができるだろうし、なんだかよく分からないアーキテクチャの存在に思いを馳せることもできるだろう。後者の場合には、次のような喩えが妥当する。何か薄い皮膚のようなものを一枚一枚ぺりぺりとやっていく。そしてそれはおそらく冷たい。冷たいそうしたものを誰かは分からない誰かが一枚一枚ぺりぺりとやっている。それはわれわれ自身であることもある。何もしなければ何か起きるというときに何も起きていないのであればそこには何かがある、このように単純に考えるのであれば、このアーキテクチャというのは多くの人間を楽にする。何も起こらない(ように見える)し、一旦は考えずに済む。まあ何であれいま起きていることというのは、あたたかく躍動的なものによって支えられているわけではなさそうだという話で、まあそういう側面はあるにせよ、それよりはむしろ冷たく、なんだかよく分からないもののほうにこそ見たい何かがあると言っていいように思う。おととい会話の中でたしかに使った「ボスラッシュ」という言葉の文脈をどうしても思い出すことができない。簡単なようであって、こういうことが本当は意外と難しい。少なくともアルコールにはそれくらいの力がある。何かが欠けていると思われたい。みんなその一心で脳内再生余裕とか言ってるだけ。居留守にもオープンワールドみたいな視野があるといい。歓楽街に足を運ぶと、いつでも簡単に質の悪い感謝を受けることができる。


仕事に邪魔されるので今日はこのくらいです。取り急ぎ

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