フィルターバブル編

どうも、シャープくんです。
しばらくこっちにいます。

 あっちとかこっちとかって言葉はなるべくなら使わないほうがいいと思っていますが、使わないと正確に読まれないだろうという判断があるときは使えるものは使ってしまうけれどやはり使わないに越したことはないと思います。分断は分かりやすいけど分かりやすいだけで害のほうが多いでしょう。
 今回書くのはしばらくこっちにいますの理由①とか理由②とかそれの近くにあることばかりになると思うので、読んでいる人の中には途中で読むのをやめようと思う人も出るでしょうから太字になりそうな部分だけ先に書いておきますと、
Twitterの居心地がとても悪くなっているのでしばらくこっちにいます
ということになります。途中まで読んでやめるならここでやめても多分ほとんど同じだと思います。
 あとはもう細かく感染症対策とか生大喜利とか共和主義とか書いていきますが、基本的にはそのいずれも居心地の悪さに収斂していくという感覚に立脚したものになっているはずです。
(追:一人称が「俺」と「自分」の2つあるけどこれは文体とかもそうだけど完全に気分とか感情の乗っかり方で変わってる。使い分けとかそんなオシャレなレベルでは全然なくてただ変わってる。)
(追:前半はともかく最終盤くらいになってくるといい加減飽きてきて俺と本当に近い感覚とか頭持ってる人じゃないと意味取りながら読むの難しいところが多くなってる。俺でさえ3回くらい読んでやっと納得してるところがあったりする。)


 新宿渋谷池袋まで1時間弱、東京都は多摩市に住んでから2年ほどになります。人が集まる場所に出ていくにはちょうどいいです。
 東京都は多摩市から2時間強、年末年始くらいせっかくだからと千葉県の実家に帰っていたら家族全員でCOVID-19にやられてしまっていました。ちょうど主戦場の予選1問目が出てるときくらい。誰から始まったことなのか結局分かりませんが、多摩に戻ってきて数日して家族から連絡があり、保健所から連絡があるかもと言われて構えていたところ保健所から連絡があるより先に発熱があり、保健所にはこちらから連絡することになりました。
 発症した際の行政手続きなどについてはご存知でしょうからここではわざわざ書きませんが、ともかく一通りの症状を経験して検査の結果陽性ですと言われ症状が落ち着いて症状が落ち着いてから数日の経過を確認するということをやりました。幸いにして飲酒も喫煙も基礎疾患もない20代の健康体で、食料さえあって家にいればなんとかなる大学生の身分だったこともあり、それほどひどいケースではなかったと言えると思うのですが、それでもつらいものはつらいです。
 味覚と嗅覚は本当に消えます。個人差はあるようですが、砂糖をそのまま舐めても甘くないのでその5倍の量舐めてやっと感覚の奥のほうに甘さと思える何かが見つかるような感じ。今は回復しているのでよかったと思いますが、リアルタイムではいつ回復するか分からないそもそも回復するか分からないという不安がとても大きかったです。俺は調理師免許を持っているので職に困ったらいつでもそれを使えばいいと大きく構えていたのですが、味覚と嗅覚を奪われてはたまったもんじゃないので飲食業に携わる人の危機感は大きいでしょう。あと普通に咳の強い風邪系の諸症状でこれも当然つらいしいつまで続くか分からんというのはやはり不安でした。
 あとはやはり家族で、家族はみんな俺より先に症状が出ていたという連絡で、比較的大きい病院で診てもらえていたとのことで、ちょうど俺が味覚消えて砂糖がどうこうやっているときには全員落ち着いて安静にしているとのことだったので多少は安心して自分の症状と向き合っていましたが、それでもやはり不安は不安です。
 ここで終わっていればここで終わっていただけかもしれませんが、家族の中には後遺症が残ってしまっている人がいます。当然誰とは言いませんが、具体的な症状としては、足腰に力が入りづらくなり以前と同じような歩行や運動に支障が出ているというものです。本人は融通が利く職場でよかったとは言っていますが、徒歩や自転車で行けた場所にも公共の交通機関を利用する機会が増え、治療のための薬や方法が見つからないまま半年が経過してしまっている状況には不安とやるせない思いが募ります。


 ここで言いたいのは自分と自分の家族がかかって大変でしたということに留まらず、感染リスクにつながる言動はこうした具体的な結果として現れますよということで、そんなことは当然みんな分かったうえで生活しているのでしょうが本当に当然みんな分かったうえで生活しているのでしょうかということです。
 自分は人はあまり怖くなくてむしろ雷とか高い場所とか大きい音とか人以外の動物とかのほうが怖いと思うタイプです。人のほうに関して余談ですが、怖い人というのはいくらでも想定できますが、その想定より自分が怖くなれればとりあえずその人は怖くないという考え方を採用しているということがあります。それでも怖い人というのは当然いますが、重要なことは雷とか高い場所とかにはこれが使えないということです。
 ウイルスによる感染症というのは間違いなく雷とか高い場所とかのほうに属するものだと思っているので、自分と自分の家族がかかってしまう以前からリスクにつながることはなるべく避けるようにしているつもりでした。関係があろうとなかろうと、自分の近くにいる人がかかってしまう可能性がある。
 基本的にその姿勢を固めたのは間違いなくEOTのキャンセルなので2020年3−4月ということになりますが、しかしその後全くゼロでやってきましたと言えるようなものではなく、麻雀2回ドライブ2回の計4回は人に会って遊んでいるということがあって、それに関しては反省しているということも事実として書いておかなくてはなりません。自分の中で「ここを超えたら本当の本当にヤバい」と判断する、いわゆる激ヤバラインである東京都の新規感染者数300−500人/日というのが根拠のないところからありますが、いずれにせよ「誘われたから」「大学の卒業が決まったときに誘われたから」と理由をつけてリスクのある行動をとったことは反省すべきであり、気の緩みにほかならなかったと言えます。
 書くことで次やその次に書くことが見つかっていくというのはいつでもそうですが、激ヤバラインの「根拠のないところから」というのはこの後も結構大事なポイントになりそうです。(追:そうでもなかった。そうでもないことはないけど改めて触れるほどのことではなかったっぽい。要は何かを判断するとき/しないときに参照するものがはっきりとあるならまだしも、少なくともCOVID-19に関してははっきりした何かが少なかったり人によって全然違ったりするという点で「根拠がない」が重要だろうということ。具体的なガイドラインがいちいちあればこんな文章とこんな文章を生んでしまう環境は生まれていない。)


 そもそも、と言って今さらそもそもCOVID-19感染症とそれに関連することへの基本的な態度を書くことになりますが、やむをえない場合を除いてリスクにつながる行動を控えるべきという基本線は最初期から変わっていないと思いますし、このような「危機」や「例外状態」を「危機」や「例外状態」として認識するのであれば、この基本線は常に意識され守られなければならない領域にあるものだと思ってきました。(追:「危機」や「例外状態」という認識がそもそもない場合もあるのか?)
 だからこそ、それを逸脱した言動は自分のものであればなおさら反省する必要があると思っているし、そうしたまなざしは、事ここにあっては他者の言動に対しても向けられるものになってきていると感じます。
 まだまだ解決されないまま状況が進んでいますが、これまでもこのことを巡って様々なフェーズが体験されてきました。上に書いた態度やまなざしというものは当然そのフェーズによって形を少しずつあるいは大きく変えるものだと思っているのが、「事ここにあっては」と書いた理由です。Twitterの居心地がとにかく悪い、個人的なフェーズは今まさにここにあります。
 ある物事をみんなと同じように認識できない、みんなと同じように体験できない、自分が一部の人とは異なる扱いを受けている、これくらいの居心地の悪さはTwitterに限らずあらゆる人間関係が持っているもので(これくらいと言っても人によってはそれが耐えられないという場合もありましょうがここではまだあなたが耐えられるものとしてこれくらいと書いています)、こうした感覚はむしろ自分や他人を反省可能なものとするためによく働くこともあると考えていますが、今回の状況は「正しい生き方」を「争う」フェーズに入ってしまったと感じているというのが現在の自分の立場です。


 「正しい生き方」も「争う」も説明する必要がある語用ですが、いずれにせよその段階というのはあるコミュニティやあるコミュニティに属すると自認する個人にとって隘路でしかなく、またそれは無理を押してゴリゴリと進んでいくこともできる隘路ではあるかもしれませんが、無理を押してゴリゴリと進んでいくほどのコミュニティではありえないという納得が、しばらくこっちにいますというところに落ち着くことになります。
 ちなみにこの「そういうコミュニティではありえないという納得」というのは、今回のことに関して言えば、生大喜利という場所が、場所としてそれをするだけの価値がないという判断を導いたのではなく、俺が「ああここはそうなんだ」と納得を受け入れざるをえない感覚を抱えることになったという説明になります。有り体に言ってしまえば、生大喜利かどうかに関係なくこの状況で移動して集まって飯食ってそれを無邪気にSNSに載せてなんてやってらんねー見てらんねーということになりますが、有り体に言ってしまえばくらいの発信では書きたいことを満足に書けないばかりか書いてないことを受け取られることがあるので、いつものようにこうして何倍もの分量にしています。


 ここで間違った受け取りが発生してほしくないのが、「書きたいこと」であって「伝えたいこと」ではないということで、別にこういうことを書くことによって何か感じてほしいことがあるとか論陣の張り合いを展開することができるとか考えているわけではなく、読んだときに感じることとかその先に論陣の張り合いがあるとかはあるかもしれないけれど、それはこの書くという行為が目指しているものではないということは書いておく必要があります。
 じゃあなんで書きたいのかという疑問はありえると思います。
 Exit,Voice,Loiyaltyがどこまで有効かということを明らかにする必要の有無はここでは措くとして、書かずにアカウントを作りかえたことも言わずログアウトして移行するというExitではなく、書いていなくなるというVoiceExitの選択は、書かずにやっていられるかということにほかならないと思っています。感じている居心地の悪さというのはストレスでしかありえず、そうしたストレスの噴出がここで書くという場所と手段で達成されたということでしかありません。
 先ほども書いたように生大喜利かどうかということはもうあまり関係ありません。EOTのキャンセルに始まった以上、生大喜利であるかどうかは長く判断の基準として重要な位置を占めていましたがもうあまり関係がないのです。それは当然、いわゆる「生大喜利の人」であるかどうかを問わなくなっていることを意味します。
 一般に人の言動として耐えられないものを、こちら側の用意に関係なく突きつけてくるのがTwitterです。様々なフィルターの機能はこうしたネガティブをある程度まで解消するために存在しますが、解決はしてくれないのでそういうときは解決により近い手段に訴えることになります。俺はTwitterが大好きで、それとは関係なくおよそTwitterのアカウントというものはツイートフォローいいねを見れば8割くらいの精度で像を結ぶことができるはずで、今回作ったアカウントはリストを含めると9割、自分が落ち着きたかったフィルターバブルはこういうところですという説明ができるだろうと考えています。


 やはり基本的には人が怖くないので、これまでもトンチキなコミュニケーションやトンチキでないコミュニケーションを介していろんな人との関係を作ってこれたのですが、コミュニケーション云々ではなかなか容易に爆破できない隘路というのが「正しい生き方」ということになります。
 最後まで括弧付きで使うしかない言葉を選択した理由みたいなことはまた後で書いています。
 ともかく、非常時にとる行動や判断というのはその集団や個人の本質を明らかにすることがあるという暫定的な結論がまずあって、その本質が大きく異なる単位が複数あると思えるような状態が長く続くとき、それが「正しい生き方」を「争って」いるように見えているということをいま考えています。
 そこに行動や判断をとっている個人や集団の意識があるかどうかということは問題ではなく、意識と無意識とに関わらず明らかにされている本質があるという時点で、行動をとっている人も行動をとっていない人も全員が俎上に載せられることになり、したがって「自分はそうした正しさを基準にしていない」「そうした争いに自分は関係がない」といった立場はありえないということになります。
 「争う」という言葉からイメージされる争いは表面化せずとも、本質的に異なるという感覚やあっちとかこっちとかいう言葉が持っている力のやりとりには、間違いなく従来イメージされる争いに近い性質があるだろうと思います。
 「異なるという感覚はない」と言う人がいる場合、今の自分にそれを受け入れる力はやはりありません。雷であれ高い場所であれ、他の恐怖症の人と比べても程度の強い自分ですが、現下の感染症について同じくらいの報道やデータを見てそのような行動や判断につながっているのであればそうした人たちとは本質的に異なる部分があると思いますし、同じくらいの報道やデータを見ていないのであればそれはまた受け入れることが難しい隔たりだと思います。ここまで書いていて不安に思うのは、異質性を可能な限り排除して同質性によって領域を画定しようとしているのではないかということですが(これは自分に対してここまで思うことはあまりなかったことなのでにわかに不安になっていますが)、自分が目指すべきと思っているこの例外状態における集団のゴールが「例外状態の排除」であるという補助線によってクリアできるようにも思います。


 やむをえない場合を除いてリスクにつながることは避けるべきだと書きました。その点で、仕事も買い物もリモートに置き換えることができている人から見た場合、自分の生活も完全なリスク回避ではないということになります。電車もバスも乗るし対人のレジしかない店では対人のレジを使う。これらは自分にとってやむをえない場合に該当するのですが、これを正しくないと判断されたらそこにまた「争い」の構図が登場することも分かっています。しかし同時にやむをえないものはやむをえないのであって、自分から見てそれは正しくないと判断できる他者の行動も、その人にとってやむをえないものであるかもしれないということも理屈では分かっているつもりです。
 ただ、このような困難を踏まえてもやはり、どうしても自分の中に「正しい生き方」を「争う」構図に落とし込んでしまう強い力が今はあります。それを、それがその人にとってやむをえないものかどうか理性や感情によって判断するときに働く力として説明できないかもしれないというのが今の自分の感覚で、もっと直感とか信頼とか恐怖とか、理性や感情を超える次元に属する力であるかもしれないというところで判断を一旦措くことにしています。
 こうした言葉や構図を繰り返し使うことで、こうした言葉や構図に特別な地位を与えようとするものではありません。むしろ、ある事柄を適当な言語運用で区切って何かを言おうとするような態度は本来苦手とするところで、的確に指し示すことができるという点で納得するまでは、言葉を使ったものを外に残すということは基本的に好きではないのですが、今これを書くという段階に当たっては括弧付きの言葉を選択してでも前に進んでいく必要があるという判断があるということを書いておきます。
 「正しい生き方」も「争う」も書き方として満足に納得しているものではないけれども、ひとまずこういうかたちで進めていくと決めた人間が使っている言葉であり構図であるということは書いておく必要があるでしょう。


 みんなもう外出は自粛しないのだろうか。ここでいう「みんな」にはいろんなレベルの「みんな」があるけれど、まあ概して外出自粛以前あるいはいわゆるコロナ以前の生活を取り戻しているように見える人たちはもうそこから動かないのだろうか。
 政治のメッセージが、政治が意図するほどの意味を持たないあるいは持たなくなっているということにはある程度同意できます。その政治が効果的なものを提供してくれないのであればなおさらでしょう。それでも俺は、今回大事だったことは「市民の行動変容」と「新しい生活様式」だと思っています。少なくとも、多くの人にとってこの危機を脱することができたと思えるような状況を迎えるまでは、この二本柱である程度やっていくしかないだろうと思っていましたし、今でもそう思います。
 行動変容は生活様式の内容に依存するものだと思いますが、例えばオンラインに置き換えられるものを置き換えていくということなんかが分かりやすいでしょう。そのうえで支援が必要だと思う事業や店舗や個人には時に権力のほうを向いてサポートを呼びかけること、それぞれの立場からいま必要と思う資源の配分を求めることあるいはいま必要でないと思う資源配分の中止を訴えること、こうしたいわば理念型の社会や個人を自分はどこかに期待していたんだろうと思います。
 社会とか市民とか政治とか、そんな言葉は見たくないと思う人も多いでしょう。じゃあそんな言葉に包摂されなかったらわれわれは何なのか。われわれ、なんかも苦手かと思います。そのような感覚はよく理解しているつもりですし自由の許容する範囲は広くあるべきだとも思いますが、やはりそのうえで、そこから距離を置こうとしている人を見ると勝手にしろと思うことも事実です。
 そういえば書き始める前にいちばん書きたかったことはこの、勝手にしろという感覚だったことを思い出しました。こんなことは脱線でしかありませんが、俺はいま使ってるアカウントをログアウトして別のアカウントを作ってそこでしばらく頭を冷やす、こういうことを勝手にやるからみんなはみんなでこれまでどおり勝手にしろということを書きたいんだった。だからやっぱりこれを書くことによって伝えたいことはありません。これを書くのだって徹頭徹尾勝手にやってます。この1ヶ月くらいずっと、どいつもこいつも勝手にするというこの感覚で、こんなことはやってもやらなくてももう本当に意味がない。意味があると思うことに意味がない。何かが伝わって反応があってもそれはこの書くという行為が期待したことではない。こういうことは何回でも言っておかないと、書き手に本来なかったはずの責任みたいなものが後から発生する(これは書き手が後から勝手に感じているということが多い!)というたくさん見てきたやつを再生産しかねない。これもいらない話ですが、俺はTwitterがきな臭くなるあの感じは結構好きでした。アカウント変えるとあれの発見が遅れるだろうという残念があるので、あれがあったときに連絡してくれる人がいたらありがたいかもしれません。


 もうそろそろ書くことへの飽きも始まってきているので、ここまでがんばってきた「言葉を慎重に選ぶ」という作業を少しずつゆるめてしかし書くと決めたところまでは書ききろうと思います。
 まあ社会にとってのそれは社会にとってのそれとして考えるとして、少なくとも大喜利におけるZoomとかスプレッドシートとかDiscordとかの活用は「新しい生活様式」の一つの大きな成果だったと思います。そんな政治の用語に落とし込むなと思う人は落とし込んでいないかたちに読みかえたらいいと思いますが、いずれにせよこれらの発展は、それ以前の地域格差をも埋める力をもって今も機能していると思います。
 ただ、これがありながら従来の生大喜利や移動して集まってという生活に回帰していこうとする流れが本当に分からない。理解も共感もできない、本当に分からないということをはっきりと言える立場にいます。今なのが分からない。今と言ってこっち1年くらいはその感覚なんですが、これは俺がその従来の生活を享受できていた時期が時期としてラッキーすぎただけか?禁止されてないからやる、みんながやってるからやる、理由はなんであれ、先ほども書いたように自由の許容する範囲は広くあっていいと思ってはいますがしかし、今がどういう状況かということを考えると、俺にはやっぱりその感覚は分からない。誰がどれくらい我慢したとか、そんなことはウイルスのほうでは気にしてくれないでしょう。
 別にアンチをしたいわけではないつもりです。俺は生大喜利が好きだった。参加していた時間より参加していない時間が長くなってしまったので、もうこれは何を言っても仕方がないと分かっていますが、好きだったはずのものや人が好きではないように見えてしまうと絶望に近い何かを覚えどうでもいいと思うようになって距離を置くという当たり前のプロセスをいま辿っています。
 生大喜利の人をフォローしたままミュートにもせず生大喜利やお出かけの感想が入ったツイートだけ見ないようにできる仕様になっていないTwitterが悪いのか?それはさすがに無理がある。生大喜利にお題を提供したことや生大喜利で優勝した人にこそこそ祝辞を送っていたことが生大喜利の開催を黙認していると捉えられてはたまらないので、もうそういうことはしません。生大喜利的なものに関わっていくことと生大喜利的なものの開催に反対することは両立するはずだった。「生大喜利もスプレッドシート大喜利も」は、激ヤバラインを超えた段階で「新しい生活様式」の要件から外れてしまっている。みんなの激ヤバラインはどこなんだろうか。単純に数の話だけでなく変異とか後遺症とか無症状の陽性とか再感染とか、ウイルスには結構どうしようもないことがあることを身をもって知ったという感覚は初めてなので俺はずっと本当に怖い。生大喜利かどうかはもうあまり関係がないというのは、「もう」というのが俺にとっては重要で、やっぱりそこから態度が固まっていったということがあるので、「関係ないんじゃなかったのか」という乱暴には先に手を打っておかなくてはならない。お笑いのライブも音楽のライブも、一度完全にオンラインのそれを経験してそれでオッケーと思うようになってからは、やはりそれを以前のようにやっていくという動きにはまだ全然賛同できない。ワクチン接種したらオッケーとは、俺は全然思わない。外食でも旅行でも、その産業とか店舗とかあるいはもっとなんか社会的なダイナミズムとかが必要だと思うならそれなりのアプローチの仕方があるだろうと思うのは、やはりさっきの理念型に囚われているだけなのだろうか。「不要不急の外出を控え」という繰り返されるメッセージがもうあってもなくても変わらないように見えるあるいはあってもなくても変わらないと言ってしまっている人たちの行動は、「感染症対策を徹底しています」という繰り返されるメッセージによって正当化することはできないんじゃないか。メディアの仕事か政治の仕事か今となってはもうどっちでもよくなったけれど、「楽観バイアス」という分かりやすくて強くてあんまり間違っていない言葉が打ち出されたのは結構よかった。俺がみんなのツイートを見ているときに探していたのはこういう言葉でした。


 フィルターバブルというのは本来ネガティブに使われている言葉で、だとすればそんな言葉をタイトルにして何かを正当化しようとしているのかもしれない態度は、何かとんでもないことを助長することになるかもしれない。そのときの責任についてはそのときに考えたり引き受けたりできればいいと思っています。今はとにかく フィルターバブル編、開始 というところまでしか考えられない。
 civic virtue 公民的徳性 というものがとりあえず幻想で、それが来たるべきものなのか遂に訪れないものなのか分かりませんが、自分は目指すべきところとしてこういうのが結構好きだったんだということに気づいたということくらいが収穫です。正しく異議申し立てするために、justでもrightでもauthorityでも何であれ正しくあろうとする態度に立脚する、こういう前提がないまま不満を表出することにはやはり意味がない。意味がないという意味が結果として残ってしまうのは結構絶望的で、それは正しく表出すべき不満を持つ必要がないとか不満の表出は正しくなくともよいとかいう帰結を導いてしまう危うさがある。テロとか暴動とかはそういう意味で確かにありえて、距離とって見たらおもしろいかもしれないけど、自発的かどうかを問わずそうしたものに関わってしまったらそれほどグロテスクなものもそうないんじゃないかと思う。
 あらゆる分野に言っていいことなのかは分からないけれど、学問というのは理念型を前提とするということを考えると、少なくとも自分が知っている政治学についてはそうだとすると、civic virtue による個人と社会と政治の連結というのはまず間違いなく理念型の一つだし、ただこういう理念型との距離を明らかに感じてしまったとき理念型のほうにできることはあまりにも少ないということになって残念ということにもなる。好きなんだけどなあ。


(追:オリンピックパラリンピックのこととか書くかもしれなかったけど基本的にはこんな態度で書いても書かなくてもまあって感じのまま疲れてきたのでここでは書きません。というかもうこれだけ書いたらそれについては書かなくても書いたと言えるかもしれない。)
(追:完全なリスク回避をできない人間がそのことを棚上げして何かを言うことはできないというような態度には、これを書いている時点でそうに決まっているのですが当然あまり同意しません。棚上げかどうかは読んだ感覚によるくらいでいいかと思いますが、何かを言うのほうはこれを書くという絶対的な何かによるものだというところが決定的に重要だったという説明になります。)
ネット大喜利のチーム戦を嗅ぎつけて、チームが決まらないままだったらマッシャープのアカウントを使うようにします。
明日のクイズが終わったらマッシャープはログアウトします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?