あいまいな力を理解すれば人は動かせるんだぜという話

五五は十なり、二八は十なり、一九は十なり、これを以て和すべし。
                     鬼一法眼 『兵法虎之巻』


人類はこれまでに色んな概念をまずふたつに分類した。
勝ち負け、敵味方、裏表、強弱、善悪、上下左右。
手足もふたつあるし、目や耳もふたつあるので、右か左か、上か下かをわけたのかも知れない。
野生の思考は身体からはじまったんじゃないだろうか。

そうして「わける」と「わかる」ようになる。
正確にはわかったような気になるだけかも知れないけど、わからないことが少しだけ減る。
そして、自分を切り分けてどちら側か選択した時から呪いがはじまる。昔話にはよくふたつのうちのひとつを選ぶ話がでてくる。
これはつまり、いい呪いと悪い呪い、どちらを選ぶのか?という話しだ。
選ぶと呪われる。

おれはケニアで生まれた日本人だったが、それを気にしていない時はとても自由だった。おれはあいまいな人間であり、どの国のしがらみや儀礼にもとらわれていなかった。
16歳くらいの時に幸せになれると思って日本で生きる事を選んだらめっちゃキツくなった。
もちろん年代的なものとか、色々あったのかも知れないが、おれは何かを選び呪われたんだと思う。
どちらかを選んでしまうと、その価値観に支配されてしまう。

自分が呪われていたことに気がついたのは合気道をはじめてからだった。
合気道では相手を動かそうと思って、こちらが相手を押すと相手は押されまいとするし、引くと引き返そうとする。
だから腕では相手を押しながら身体の方では引く。
すると、相手はわけがわからなくなって、そのままついてくる。
こういうのが呪いと身体の関係に凄く似ていると思う。

どちらが「先」に相手をこの状態にするかがカギだ。
選ぶのではなく選ばせないといけないのだ。自分で自分を分類するのではなく、相手に自分を分類させる。動くのは相手で動かすのは自分だ。
呪いにかかるのではなく、呪いにかける。

武道では嫌われる状態に「居着く」というのがある。
その場から動けなくなってしまっている状態のことだ。相手を動かそうとしたり、力を入れたりふんばったりすると居着いてしまって実は自分の方が動けなくなってしまっている。
力を抜いて相手が出した力を抑えながら移動すると、すべてがあいまいになる位置がある。押し合っていたはずなのに押しても引いてもいない位置がやってくる。
そこに立った方がまるで最初からそうだったかのように支配権を手に入れることができる。

これは自分に呪いをかける時でも同じだと思う。
本当はあいまいでどちらでもいい事を理解して、そしていつでもうごけるようにしてから呪いにかかればいい。
相手を呪いにかける時も、相手に選択させてから実はその選択肢がどちらでもよかったということを理解させてやればいい。
まるで合気道のように、すべては結局のところどちらでも同じで、重要なのは「先」かどうかなんじゃないだろうか。

そんな風に思う。


以上を踏まえて曖昧に書いたのが↓の記事です。

呪いはどこからきてどこへ行くのか?https://note.com/matsurugi/n/n7a1f03e5e8df

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?