『贈与論』で稽古する合気道:先住民の贈与と合気道の入身は同じもの
貴様らは稽古の語源を知っているか!?
いにしえ(古)をかんがえる(稽)ということだ。だから考えようよ!稽古しよう。
というわけで、先住民族を研究して人類の贈与を紐解いた古典『贈与論』をまとめつつ、合気道を稽古しようじゃあないか。
先住民族の贈与が合気道と何の関係があるかって?バカヤロー!だいたい同じだ!
それを今から説明するからよ〜く見とけや。
贈与は入身(攻撃)
贈与というと平和ボケした我々にはあんまし攻撃的なイメージはないかも知れないけども、インディアンをはじめとする多くの先住民族ではポトラッチと呼ばれ時に親しまれ、時に畏怖された。
もともとは「食物を与える」を意味してたけど、贈与論では「戦闘型の全体給付」と定義されている。
先住民族が行う贈与とは「おれと仲良くしたいなら、当然それなりのお返しをせぇよ」ということであり、
「おう、おめぇのためならこんなもん惜しくないわ」という破壊も贈与になる。
物をあげるということは力の誇示だ。
相手にとって重要なものや理解できないものをゴミのように与えることで相手の心を支配できる。
支配とは支えて配るとことだ。何かを貰ってそれに依存したら抜け出せなくなる。このように贈与とは入身の一種といえよう。
贈り物には霊が宿る
マオリ族はタオンガ(品物)にはハウと呼ばれる霊がついていると考えていて、例えばAさんからタオンガをもらったとすると、それにAさんのハウもくっついてくる。
貰ったタオンガをそのままCさんにあげたとして、そのお礼に何かを貰うと、それにはなんとAさんのハウがくっついて戻ってきてしまうのだという。
だからお返しに貰ったものはどんなものであれAさんのハウが持ってきたものとなり、Aさんに返さなければいけない。
これをしないと品物にくっついてるハウによって自分が殺されてしまうと言われていて、贈り物と一緒についてくるハウは元々の持ち主や場所へと戻ろうとするので同等かそれ以上の状態にして返してやらないといけない。
ハウの存在によって半ば強制的に関係者全員が贈与の輪の中に参加させられるというわけ。
贈与は義務
先住民の間では贈り物を拒否することは戦闘の開始か相手の奴隷になることを意味していたという。
だから関係を維持するためには贈らなければならないし、貰わなければならないし、お返ししなければならないのだ。
ある神話には名のある部族の首長がやってくる場合、首長のハウが先に到着して獲物を隠してしまうので獲物が取れなくなってしまうという話がある。
つまるところ怠けていたら贈与できなくなるぞっていう脅しみたいなもんなんじゃないだろうか?
個人間だろうが部族間だろうがとにかく贈る贈られるという関係はそれ自体が交流になっている。
お互いに何かを贈り合う関係というのはもはや他人ではなく利害関係者だ。
明確な法律のない時代にはそうやってムダな争いを避ける安全装置みたいな役割があったのかも知れない。
ハウと義務によって関係は維持され、相手のことを忘れたりないがしろにすることができないようになる。
合気道の入身も贈与
合気道でこのことを考えると、すごくわかりやすい。贈与は合気道でいうところの入身だからだ。
先に相手に伝えてやる、持たせてやる、反応できるように受けさせてやるのが入身。
それを受け取れば「結び」の関係になる。
相手と自分が正しくつながっている状態のことを合気道では「産霊」という。
(植芝盛平著「武道」より抜粋)
逃げているだけだとやがて追い詰められるから、関係性を築くためにはまず踏みこんで自分の一部を相手に預ける必要がある。
そのつながりを利用することで技がかかる。
北朝鮮とかを支援して国交を樹立するのだって同じだ。つながりがないと技はかからない。
タオンガしてハウが行かないと利用できない。ハウを上手に先にだすのも合気道の稽古だ。
(植芝盛平著「武道」より抜粋)
相手が贈るものには意図が込められているので、それをずっと受け取ったままでいるといいように支配下に置かれてしまう。
一対一でも、家族同士のつきあいでも、民族間でも、国家間でもやってることは同じなのだ。
産霊とは力を生み出すという意味がある、結ばれていないと力はでないのである。
(以上、贈与論、序論~第一章より)
まとめ
プレゼントにリボンが結んであるのもなんかそういう象徴的だなぁと思う。
贈り物は未開の地でも行われている、人々の行いの基礎、現代文明も合気道もその基礎の上に成り立っている。
結局、シンプルな暴力では長期的な支配はできないということでもあるのかも知れない。
贈与が攻撃だというのとがわかれば、力に頼った強い攻撃を当てなくても良くなる。相手に受け取らせるだけで攻撃になるんだから。
つづくよ
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?