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殺しに来た相手と仲良くなる方法はあるのか? あるいは合気道における「敵」と「戦う心」について

合気道には「自己に打ち克ち、敵をして戦う心なからしむ、否、敵そのものを無くする」って言葉がある。

わかりやすく言えば「殺しに来た相手と友達になる」ってやつ。

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植芝盛平『合気道の精神』より

ある意味でこれが合気道の目指してるものなんだけど、この現代の日本に殺しにくる敵なんているのか?って話だ。

これをどうすれば実現できるのか? みたいなことを不真面目に考えてみた。

殺される確率


警察庁が公開してる犯罪統計によると、2021年の1月から11月までに起きた殺人は800件

無差別に何人か殺されることもあるとはいえ、平均すれば日本では1日に2人くらい殺されているってことになる。

これは交通事故で死ぬよりもはるかに少ない。さらに、こういう犯罪に巻き込まれるのは赤ちゃんや老人など弱者が圧倒的に多い。

なので殺しに来て貰うには積極的に嫌われなくてはならないけれど、同時に弱そうでなければいけないということだ。

つけ加えると誹謗中傷も問題になるので、かなり芸術点の高い追い込み方をしないと殺されるのは難しい。

相手を変に追い詰めすぎれば殺しにくるのではなく自殺を選ばれる可能性もある。

そう、殺すより自ら死ぬ方が手っ取り早いのだ。

一番身近な敵は「自分」


警察庁の統計によれば今年の11月までの自殺数はなんと1万9113件

平均すれば1日に57人が自殺してる計算なので、殺人と比べるとその差は歴然である。

つまり我々は誰かに殺されるより、自分に殺される可能性の方が高いってことだ。

だからこそまずは「自己に打ち克つ」なのだろう。

一番最初に殺しに来る相手は自分だから、まず自分と仲良くできないと他人をどうこうしてる場合じゃない。

敵とは何か?


現代社会では受験や就職を筆頭に、大人数が参加するタイプの競争に満ち溢れている。

競争相手はある意味では敵だ。
「敵」と「戦う心」がある限り、争いは終わらない。
敵と戦うということは必ず勝てるわけじゃない。

あるいは勝ち続けたとしても、戦い続けることに疲れるかも知れない。
倒しても倒しても次の敵は現れる。その反復に絶望するのかも知れない。

戦う必要はあるのか?



受験や就職、あるいは学校や企業における競争というのは実は大した広さのない世界での争いだ。
果たしてそこに勝つ必要はあるのだろうか?

そもそも、敵がいたとしてもその敵は自分を殺しに来ているわけではない。
そんなに大層な敵じゃないのだ。
単なる競争相手……。もしかしたら競争相手ですらないかも知れない。

ただの競争をしているように見える相手を、負けたら死を覚悟しなければならない敵との戦いにしているのは自分だ。
そう考えると、まず「なからしむ」べき敵とは自分なんじゃないだろうか?

まとめると


自己に打ち克ち、戦う心をなくす、いや、敵そのものを無くしてしまう。
自分の「戦う心」がなくなればほとんどの相手はもはや敵ではない。
本当に殺しに来る敵を待つためには、まずは敵をなくしていくことが必要なんじゃないだろうか?

口では死ねと言っていても、本気で死ねと言っているかはわからない。
本意がどうだろうとSNSで証拠が残れば訴訟して数十万程度の金を取れる。そうすると死ねと言う相手も敵ではなく財布になる。

戦う心があると、相手の口撃を正面から受けてしまう。
戦う価値のない相手をわざわざ敵にして戦う必要はない。
戦わなければ違う道が開ける。

とりあえずまずは、ちゃんと殺しにくるやつ以外は敵じゃないってことなんじゃないだろうか?




っていう解釈もできるんじゃねーかなーとか考えてたら、1日が終わった。

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?