明日、妻がいない。
今日は三連休の三日目。
なのだけれど私は普通に仕事。朝5時に起きて腹筋と背筋をして(最近腰痛がひどくなってきて、妻にすすめられて始めた)、シャワーを浴びて出勤。7:05にはオフィスの自分の席に座って仕事を始める、いつも通りの出勤だ。我ながら社畜だと思う。この依存症から何とか脱却したいのだけれど、いかんせん仕事が楽しい。依存症と分かっていてもやめられないジャンキーの気持ちがよくわかる。
いつもは夜も遅い時間になりがちなのだけれど、今日は祝日なのでさっさと18時で仕事を切り上げて帰ってきた。近所のまいばすけっとで妻と二人で食べるアイスクリームを買って家に帰る。
玄関のドアを開けると家の中が真っ暗。電気を消してバルコニーで夕涼みでもしてるのかなと思ったけれど、バルコニーにもいない。部屋の中は静まり返っている。彼女が夜家にいないなんて言うことは考えられないので、頭の中が混乱する。彼女はどこに消えてしまったのだろうか。
・・・と数秒考えて思い出した。今日は彼女の個展の最終日でギャラリーに搬出に行っているのだ。2年に一度だけ開催する個展。ほとんど誰にも案内せず、札幌の小さなギャラリーで静かに開催される個展だ。彼女はエゴサーチしないので、私がかわりにエゴサーチするのだけれど、とある人のつぶやきに「展示室のなかに一切作者の名前がない潔さ」というコメントがあった。誰の展示なのか、そのギャラリーに行ってもわからない。そんな個展が開かれていることなんてほとんど誰も知らない、そんな個展。そして彼女はその個展のための作品作りにその人生のほとんどすべてをかけている。
生まれついてのミニマリストである妻はほとんど自分のモノをもっていないので、部屋の中に彼女がいないと、本当に彼女と一緒に暮らしていたのか、一瞬わからなくなる。冷蔵庫の中を覗いてみる。今日の夕飯のための鱒とホウレン草が入っている。ああ彼女は存在しているのだと安心する。
明日妻がいなくなっても、家の中はほとんど何も変わらない。冷蔵庫に夕食の準備の食材が入っていないことくらいだろう。
真っ暗な部屋の中で考える。
明日妻がいなくなったら、私の人生はどうなるのだろうかと。
「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」とガンジーは言う。昨日私のnoteにスキしてくれた人の記事を今朝読んだのだけれど、今になってハッとした。
以下ネタバレなのでまずは作者の紹介から。
明日死ぬかのように生きる。
それは自分が明日死ぬのではなく、自分の大切な人が明日死ぬかもしれないということ。そんな気付き。
明日自分が死ぬと思って生きるのではなく、明日、自分の大切な人が死ぬかもしれないと思って生きる。それだけで、今見える景色が変わってくるのがわかる。
ぽん乃助さんのnoteを今朝腹筋と背筋した後に読んで、ふーんと思って会社に行って帰ってきて、妻がいない部屋でハッと気づく。
必要なときに、必要な言葉に出会える幸運に感謝。
そして明日も妻がいる幸運に、心から感謝。
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