他者と自分、比較の罠。

春は変化の季節、
引きこもりには置いてけぼりの季節。
桜なんて大嫌いだった。

車で街中を走っていると、昨日今日あたり都内はちらほらソメイヨシノが咲き始めていて、その薄い花の色に、この季節はいつも苦い想いをしていたことを思い出す。

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私は高校2年生の夏の終わり、9月1日の登校を最後に、翌日から学校に行けなくなりました。
その後不登校し初めて半年、桜の季節。
元クラスメイト達は進学をするけれど、私は部屋から出れず置いてけぼりのままで。

情けなくて辛くて不甲斐なくて悲しくて。

なぜみんなが普通に出来ている学生生活が私にはできないのだろう。
みんなは順調に次の学年に進学をして、きっと多くは大学に行き、就職をし、結婚をし、仕事を頑張っていくのだろう。
そんな当たり前のことができない自分。

そう比較して苦しくなっていた。

とはいえその罠は特段珍しいことではなくて、むしろスタンダードな反応のはず。
比較しない方がおかしいぐらいだけど、当時はそのことも分からず、比較して嫉妬してしまう自分にも落ち込むマイナススパイラル。

*
それ以外にも他者と自分の至らなさを比較して心煩わせること、沢山ありました。

才能がある人に嫉妬して、素敵な見た目の人に嫉妬して、楽しそうに充実した毎日を過ごしてる人に何度爆発を願ったか。

散々比較をして辛くなって、最終的に比較すること自体に疲れ果ててしまった。
疲れ果て過ぎたらふと、どうでもよくなって。

どうでもよくなると面白いもので、冷めた目で見られるのか、比較とは何だろうと考えるように。

今目の前に見えていて嫉妬してる比較対象を、冷静に見定められているのか?という疑問が浮かぶ。

目の前で楽しそうに過ごす人がいたとして、その人は本当に楽しいのか。
自分自身がたいして楽しくないのに楽しように振る舞うことはよくよくあったので、目の前の人が本当に正しいかどうかはよくわからない。

目に見えているものが、本当に見たまま正しいのか。
そう考えると何もかもわからなくなるし、一切に信用が置けなくなった。

おののきながらその事について散々考察した結果、見たままが正しいのか、その答え合わせができる方法はないのだと思い至った。
楽しそうにしてる人の胸ぐらを掴んで、お前は今本当に楽しいのか!と問いただしたとして、楽しいと帰ってきた答えを、それが本当かどうか確かめるすべはないから。

心なんて見えない。

*
じゃあどうすればいいんだ、確かなものがないように見えていっそう不安定になった。

怖かったから他者をよく見た。
よくよく見て、それでもわからなくて、だけどどうやら心から楽しそうにしてるように見える人達に、共通の受ける印象。

確かめるすべはないけれど、なんだか裏もなさそう。
それであればその裏のなさそうな様子を一旦、信じてみてもいいのかもしれない。
信じることは怖いけど、目の前に見えるその人のことをそのまま受け取ってみても良いのでは。

そうこうしているうちに疑いの目で見ること自体が馬鹿らしくなってしまった。
馬鹿らしくなってしまうと疑うこと自体も面倒になって、たとえ裏の思いがあったとしても、今目の前に相手が出している表情や感情などは、その人の出したいものとして受け入れてしまえばいい。
そう考えが落ち着いて、なんだか一息つけた。

ここまで考えて、私が目に見えている比較していたものは、氷山の一角でしかないんだろうなと次に考えた。

この成績の良い学生は高学歴を求める親のプレッシャーに、毎日胃を壊しながら勉強しているかもしれない。
目の前のスタイルの良い女性は、もしかしたら食べたらすぐ吐いて、食事を楽しめないのかもしれない。
それを確かめるすべがないのなら、見えているものと自分を比較するのは無意味なことではないか?

何たる比較の罠だ!

*

そう思い至ってから、他人と比較することがかなり減った。
そして比較しないというのは、とても楽なこと。

そしてそれと逆に、その心情が本当に正しいのかを突き詰められる存在が一つあることにも気づいた。
自分自身であれば、本当に楽しいのか、悲しいのか、どういうことをやってきた上での今なのか、掘り下げれば見極められる。
(見当違いを自分にしてしまうこともあるけれど)

そう気づいた時に、比較するなら過去の自分とするとなんだか楽しい気持ちになることがわかった。
思考実験を繰り返して色んな気づきがあって、登ったり下ったりもあるけれども、なんだか進んでいる自分。
それはまごう事なき本物だ。

それならこれからは、
比較は過去の自分とすればいい。

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ここまで、5年分ぐらいの考察の凝縮です。
長かったぁ!
そして長文にお付き合いいただいてありがとうございました。

今の私の目標は
ハイキュー日向翔陽のバカ真っ直ぐさ。
単純に生きるのは、楽です。

そして今では
桜の柔らかい色を、
とても美しいと感じます。

生きづらさ応援の活動をしています。