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20231009 十月十日じゃない体育の日 祝日の移動と祭の日の移動

 今日は体育の日だったのですね~全然気づきませんでした。って、今調べたら体育の日じゃなくてスポーツの日なのですね。2000年から変更されたようなのにまだ体育の日と言ってしまうのは、老化で新しいことを学習できなくなっている証拠だと思うので涙です。・゚・(つД`)・゚・。

 まあでも、こうして祝日の名前を覚えられなくなったのは老化以外の理由もあるのではないかと思います。
 昔の「日にち指定」だったころの祝日は「十月十日、体育の日」という感じで「その祝日が何の日か」ということに意識が行きやすかった気がします。しかし、ハッピーマンデーで祝日が移動するようになると「今度は3連休以上になるか?」ということばかりに意識が行き、その次に考えるのは「行楽に行くかどうか」であって、祝日の意味を考えることが少なくなったような気がします。
 これは、「祝日で余暇を過ごしやすくする」という政府の目的が実現しているわけであり、喜ばしいことだとは思うのですが、そのせいで祝日の意味が薄れているのもまた確かなのだろうなあと。それならば、もう祝日という概念から離れて「月に1度は3連休をつくる」という大前提を作ってもらった方が良いのになあとも。

 まあでもこうして祝日においてここ20年くらいで実際に「日が移動するようになると意義が薄れる」ことを体験すると、祭の日程についても「日指定」と「曜日指定」の差は結構大きいのではと思いました。

 なんというか「日指定」だと、当然平日に祭をする日が出てくるわけで、「祭のために仕事の休みを取る必要」が出てくると思います。そうして、祭のために休みを取った本人は「休みのために仕事を休むほど自分は祭を愛しており、それだけその祭は大事なものだ」という認識を持つようになると思います。また、職場側も、祭で休む人に許可を出すことで「この地域には仕事を休んでもよいほどの価値のある祭がある」という認識を持つようになると思います。これらは認知的不協和の理論でおそらく説明できると思います。
 同じ枠組みで考えると、「曜日指定」だと、「この祭は観光のために本来の曜日とは違う曜日に行っている」「日指定では観客も参加者も集まらない祭だから曜日指定にしないといけない祭である」という認識ができてしまい、それがさらに「この祭は神事的な価値は弱めである」という認識につながっていくような気もします。
 このあたり、実際に日指定と曜日指定の祭に対するイメージを比較すると統計的に示せるのでは…と思うのですが…一度やってみようかなと。

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