R-1ぐらんぷりをみる布団のなかで

 休学している。自分をまもるためにやすんでいたら、めぐるましく周囲が変わりはじめた。友人たちはみな相当に優秀であり、そんななか生きて、それが普通になってしまって、気がついたらぐらぐらしていた。
 働く、には向かないとか何度言われたかわからない。根を詰めて何かやるとか、人と協力するとかできた試しがない。そういうくらい予感を抱いて4年を過ごし、いざ目の前にせまると、「それ」が持つ効果やざらつき、がありこのままでは生きていけないとわかるようになる。

 そういう夜にはR-1ぐらんぷりをみる。

 R-1ぐらんぷりが好き。記憶があるのは、小学2年生、2008年からで、それから欠かさず毎年生放送で見ていた。
 わたしは、人間がひとりで舞台に立ち、大暴れ(したり、しなかったり)するところが見たかった。R-1には夢がない、とかいわれる。が、当時の私は、今も、別にそんなもの求めてはいない。正直だれが優勝しようが本当にどうでもよかった。生きている人間が見たかったのだ。
 トツギーノをアレンジして披露していた幼少期を思いだす。目立つ行動をして、近づいてきてくれた人としか関わらなかった中高時代を。
 ピン芸人が本当にすきだった。ピンという道は、だれかと一緒にはものをつくらない、という選択なのではないかとおもう。はじめに自分の作ったもので笑ってくれる相方は、いない。ひとりの頭でおもしろいとおもったことを、ひとつの身体だけで完結させようとする。
 わたしはそもそも、みんなの輪のなかに入っていたことは一度もなく、輪に入ろうとすらもしていなかった。

 まだ時間はかかるが、人々が置いていく青さを一生かけて演じ続けるのだと、もうそろそろ心にきめられそう。
 わたしはもうしばらく大学にいるので、みんながいつでもこれるよう、果物とか用意して待っています。

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