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やさしさのありか

一年前のこと。


私は、いつものように眠い目をこすりながら地下鉄に乗っていた。
深夜の業務に向かうためだ。

冬の夜勤は辛い。
だんだん冷えていく外の空気に急かされるように、人々は家路を急ぐ。
その流れに逆らって、ずんずん駅に向かうのだ。
同じく地下鉄に乗り合わせた他の乗客たちもまた、みな疲労をまとっているように見えた。

"次は、中野坂上、中野坂上、お降りの方は…"

これから仕事と言えども、やっぱり、夜だから眠い。
うつらうつらする頭の中で、車内アナウンスがどんどん遠くなっていく。



ふと目を醒ますと、向かいの席で、男子高校生がテニスラケットを抱えて爆睡していた。
相当疲れているのだろうか。
…私も高校生のとき、部活超キツかったから分かるなあ…。

そう思いながら目を離そうとして瞬間、
電車が揺れた。
その男子高校生の手の中に頼りなさげに握られていた定期券が、ポトリと落ちた。


"拾ってあげようか"

そんな考えがおぼろげに浮かんだ時、
近くの女性が先に動いた。
定期券を拾い、そっと戻してあげていた。
心が、じんわりと温かくなっていくのを感じた。

"女性にとびきり素敵な明日がおとずれますように"
心の中でそう願った。


その高校生は、いくつかの駅をまたいで眠り続け、ふと我に帰ったように目を覚まし、降りていった。

きっと彼は、気づいていない。


自分の定期券が一瞬、旅に出たこと。
いま彼が握りしめているのは、あの女性の優しさであること。



他人にやさしさを求めてしまうことがある。
私はこれだけ優しくしてあげたのに。
私はこれだけ想っているのに。
目も当てられないような不満の渦が、勝手にぐつぐつと煮える。

でも。
深夜の地下鉄で、私は思ったのだ。

私だって、気付かない間に定期券を拾ってもらっているかもしれない、と。

あの日わたしは、やさしさのありかを、秘密裏に発見することができた。
あの女性が定期券を拾うように、私が隣の人の定期券を拾ってあげるように、
私だって、寝ている間にこっそりと、きっと拾ってもらっているのだ。
拾ってもらうのはたいてい寝ている時だから、気付かないのだけど。


やさしさはきっと、そういうものなのだ。
人はみんな、見えないやさしさに包まれて生きている。


本当はきっと、すぐそばにあるんだよな。
私たちが簡単には気付かないだけで。



電車が目的地に着いた。

今日のこと、きっといつかnoteに書きたいな。

そう思いながら、
さっきよりもずっと寒く、ずっと静かになった夜の街をずんずん歩いた。