【中編】ここは安全、心臓ふたつ
どぶ川に沿って伸びるアスファルトと、夕闇に聞こえ始めた打ち上げ花火の響きが、その夜の記憶の始まりだ。僕の手を引いて歩くユーコさんの、音を追って振り向いたときの髪の揺れかたまでが、いまも鮮やかに思い描ける。
「戦場みたいだね」
彼女はしばらく耳を澄ませたあとでそう呟いた。そういう突拍子のないことを、いきなり口にする人だったのだ。
「戦場って?」
「戦争が起こっている場所のこと」ユーコさんは答える。「ほら、映画とかで観たことない? 爆弾が降ったりして、たくさんの人が死んじゃうんだよ」
そんなことは、まだ九歳になったばかりの僕でもわかっていた。僕が知りたかったのは、戦場という言葉の意味ではなく、戦場と比喩されたものの正体だ。しかし、ユーコさんにふんわり微笑まれてしまうと、それ以上の質問をする気にはなれなかった。さきほど携帯電話を覗いたときの、あの苛立たしげな目つきに戻ってほしくなかったのだ。
花火は遠い雷鳴のように大気を震わせて、いつも淋しい細道の印象を少しだけ変えている。音の方向へ顔を上げたけれど、立ち並ぶ住宅が邪魔で、肝心の光を観ることは叶わなかった。行き場のない僕の目が、かわりにかつて母と出かけた花火大会の記憶を投影する。どこまでも続く河川敷の人波、夜空が爆ぜるたびに湧き起こった歓声。夜気に混じる火薬の匂いと、ビニールの中で翻る金魚。まだ優しかった母の、繋いだ手の柔らかな感触。頭上に連なる赤い提灯の点線が目の奥をちらちらとくすぐった。
それらの断片的なシーンは、その頃の僕を支える貴重な思い出のひとつだった。記憶というのは妙なもので、誰か特定の人物を思い出そうとすると、必ずその人物に関わる情景と一緒に思い出される。絵画のように人物だけを描くことは難しい。人々がヒトラーを思い出そうとするとき、荒廃したポーランドの街や、酸鼻を極める収容所を思い出すのと同じだ。その逆もまた然りで、たとえば故郷の風景に感傷を呼び起こされるのも、そこに住んでいた誰かを思い出してしまうからに違いない。
「ハルくん」
呼ばれて、僕は我に返る。ユーコさんが屈むようにして僕の顔を覗き込んでいた。垂れた髪の隙間で、右耳のピアスが小さく煌めいていた。
「花火大会、行きたい?」
少し迷ったものの、首を横に振った。なんとなく後ろめたさのようなものを感じていた。母に対して抱いたものなのか、それともユーコさんに対して抱いたものなのか、自分でもよくわからなかった。
そう、とユーコさんは安心したようにまた微笑む。
「じゃあ、おうちではん食べようね」
僕たちは意味もなく笑みを交わし、アパートを目指して再び歩く。その日は記録的な猛暑日だったというのに、彼女の湿った左手は作り物みたいにひんやりとしていた。
◇
戸籍上からいえば、ユーコさんは僕の叔母にあたる人である。
当時二十六歳、実姉である僕の母とは十以上も歳が離れていた。顔立ちはまったく似ておらず、性格や嗜好も正反対だったように思うが、時折どきっとするほど母と似た仕草をすることがあった。姉妹の仲は、悪かったらしい。連絡を取り合うこともなかったという。だから、僕を引き取りに現れるまで一か月近くも時間がかかったのかもしれない。
その年の五月、母はいつにも増して激しく僕を痛めつけたあと、部屋を出て行ったきり帰ってこなくなってしまった。母の許に入り浸っていた男も同時に姿をくらましたので、団地の一室にはボロ雑巾のような僕だけが取り残された。ほかにあったのはお酒の空き缶や饐えた臭いを放つ煙草の吸殻の山で、つまり、僕を含めてゴミばかりの有様だった。
二日ほど、食パンをかじってなんとか息を繋いだ。学校へは行けなかった。行こうにも、靴ベラで殴られた脚がひどく痛み、立ち上がるのも困難だったのだ。あとで診てもらったところによると、脛の骨にひびが入っていたらしい。支障が残るような怪我でなくて本当によかったと思う。
誰かに助けを求めるという選択肢は、端からなかった。
母は家庭事情について(とりわけ育児事情について)他人から干渉されることを極端に嫌っていたので、僕が外へ助けを求めたと知られれば、あとでもっと酷い目に遭わされるのは明らかだった。僕は母の怒りがなにより怖かった。食べ物に困っても、脚が腫れ上がっても、おとなしく母の帰りを待っているよりほかなかったのである。
それでも結局、当時の担任教師が様子を見にきて、衰弱している僕を発見してくれた。あまりにも状況が慌ただしく変化したせいで、またひどく弱っていたこともあって、僕はそのときの経緯をよく憶えていない。気づけば病院らしき場所に担ぎ込まれていて、次に気づいたときには児童施設のベッドで眠っていた。そこには僕と同じような、雑巾みたいにくたびれた子供がたくさんいた。大人も大勢いた気がする。無口な子供たちと対照的に、大人たちは次々と入れ替わるようにして僕と話しにきた。ほとんどが怪我の原因や母の普段の言動についての質問だったが、そんな質問に正直に答えられるわけがない。黙っているか、嘘をつくしか、僕にはできなかった。
そこにいた人々の顔も、いまとなってはひとりとして思い出せない。
僕がいまでも思い出せる人は(そしてこれからもけして忘れないであろう人は)、最後にやってきたユーコさんだけである。その日は梅雨入りしたばかりで、朝から暗い雨が降っていたが、彼女が訪れた昼時には、まるで正気に立ち返ったかのように晴れ間が覗いていた。
「わたしね、ハルくんのお母さんの妹なの」僕の顔を見つめたあと、彼女はにっこりとして言った。「ここを出て、わたしといっしょに暮らそうよ」
その提案よりも、ユーコさんの存在そのものが、僕には不思議だった。なんとなく、母には僕以外に家族がいないものだと思っていたからだ。自分も母も、世間一般のルールや体裁といったものからは隔絶された人種なのだと、幼心に諦めていたのかもしれない。
とにかく、そういう成り行きで僕たちは一緒に暮らし始めた。
二人の生活は、結局のところ半年にも満たなかったわけだけれど、僕にとっては掛け値なしに最良といえる時間だった。ユーコさんにとってもそれは同じだったと思う。そうであってほしい、と心から願っている。
最初の頃だけは、さすがのユーコさんも態度がぎこちなかった。
なにげない言葉や仕草に、こちらの顔色を窺うような気配が常に感じられた。無理もない。彼女はまだ二十六歳の若者で、自分が産んだわけでもない不幸な子供を引き取ったのだ。言うまでもないことだが、子供を預かるというのは、食事だけ世話してあとは放っておけばいいという気楽なものではない。彼女にしてみれば、僕に関わる事柄のなにもかもが未知のステップだったのだ。
かくいう僕も、しばらくはユーコさんとの生活に上手く馴染めなかった。綺麗に片付いたアパートの部屋や、カーテンを開け放った窓の明るさ、工夫が凝らされた手料理の味、無条件に向けられる微笑みの温度……、そこにあるすべてがそれまでの僕には縁のなかったものであり、それまで縁のあった暴力や空腹といった類のものは一切が影を潜めていた。きっと、保護された野生動物があんな気分になるのだろう。ユーコさんとの生活に満ちる眩しさのようなものが、いつも僕を居心地の悪い気分にさせていた。
ただし、引き取られた初日の夜の時点で、もしかしたらこの人と仲良くやっていけるかもしれない、とも僕は予感していた。一緒にお風呂に入ったとき、ユーコさんの体にあったいくつもの痣、そして細い手首に走るまだ真新しい切傷が、僕の心にシンパシーめいたものを芽生えさせたのだ。
「お揃いだね」湯船に浸かりながら、彼女も僕が考えていた言葉を口にした。「ハルくんも痛かったよね。もう大丈夫。ここは安全だから」
僕は無言で頷きながら、彼女の手首の傷を何度も視線でなぞった。ここは安全、という言葉がいつまでも耳の中でこだましていた。
◇
アパートに帰ってからも、花火の音は変わらずに続いていた。薄い壁を貫いて、どぉん、どぉん、と震動が伝わってくる。窓を覗くと、二階であることが幸いして、日暮れの青い残照の彼方に炎のかけらが辛うじて見えた。ここから眺めると、ビー玉の模様みたいに可愛らしかった。
ユーコさんも隣に佇み、しばらくその光景に見惚れていた。時々、発泡酒の缶を静かに傾ける。舌の上で転がすような飲み方が母とは違っている。僕も缶コーラを渡されていたが、炭酸が痛くてちびちびとしか飲めなかった。
「ハルくんは花火やったことある?」ふいにユーコさんが訊ねた。
「ずっとむかし、団地にすんでいたころにやったことあるよ」
昔といっても、せいぜい二、三年前だったように思うが、九歳の子供には遥か昔の出来事だ。団地に住んでいた頃というのは、もちろん母と一緒に暮らしていた頃という意味である。ユーコさんの前ではそういう微妙な言い回しが必要だったのだ。本当はもう一人、母のほかに父親らしき男もいたのだけれど、それについては黙っていた。どう説明すればいいか、わからなかったからだ。
「ユーコさんは?」話の穂先を逸らすために僕は訊ね返す。
「わたしはしばらくやってないなぁ」彼女は発泡酒を飲み干して、視線を虚空に漂わせる。「中学のとき以来だから、十年以上やってないね」
「花火、すき?」
「どうかなぁ」意外にも彼女は首をかしげた。「花火自体は好きなんだけどね、花火が終わったあとの、あの、しらーっとした空気が嫌いだったかも」
「空気?」僕も首をかしげる。
「うーん、空気っていうかさ……、あぁ、明日も学校かぁ、みたいな……、みんなおつかれー、またねー、みたいな感じ。わかる?」
いつものユーコさん節だ。正直よくわからなかったけれど、学校が憂鬱なのは僕も同じだったので、とりあえず頷いておいた。僕がわかったふりをすると、ユーコさんはいつも嬉しそうな顔をするから、そうやって頷くのがいつの間にか癖になっていた。
そのとき、ユーコさんの携帯電話が鳴り出して、遠くの花火の気配を掻き消した。液晶を覗いた彼女が眉をひそめる。僕をちらりと見て、窓辺から離れながら耳へ当てた。僕は嫌な予感を覚えた。
「もしもし」と彼女が蚊の鳴くような声で応答する。話を聞かれたくないらしく、台所の暗がりまで下がっていった。「電話しないでって言ったでしょ」
僕はむりやり花火へ視線を集中させていたけれど、それはもう雑誌の写真のように奥行きがない代物に変わっていた。自分が糸で吊られた人形みたいに思えてくる。こういうときは、吸い込む空気までがよそよそしく感じられるものだ。ようやく炭酸が抜けてきたコーラは、虫歯になりそうなほど甘くて粘っこかったのに、美味しいとはとても思えなかった。
「だから、無理って言ってんじゃん!」
彼女が鋭く怒鳴る。
電話の相手と言い争っているらしい。
その尖った声色が呼び水になって、脳裏に母の声が蘇った。母が暴発するときにも、よくそんな声を聞いたものだ。男の人といるとき以外、母はいつもぶつぶつとなにかを呟いていた。「ふざけんなよ」とか「うるせぇよ」とか、そんな言葉だ。お酒を飲んだり、どこかから帰ってきたりしたあとには、なおさらその兆候が目立った。そして、母の悪態がだんだん加熱してくると、僕の体は自然と汗ばみ、じきに襲いかかってくる痛みに備えてこわばり始めるのだった。
電話はたっぷり百年分くらいの長さに感じられた。
やがて戻ってきたユーコさんは、明らかに平静を欠いた様子だった。目尻が吊り上がり、顔は血を抜かれたように蒼褪めている。しかし、蒼褪めているのは僕も同じだっただろう。前髪の下に浮かんだ汗が氷のように冷たかった。
硬直している僕に気づくと、ユーコさんはすぐさま眉間の緊張を解いて笑みを繕った。
「どうしたの、ハルくん。恐い顔して」
咄嗟に答えられなかった。
目の前の女性が、母と瓜二つに思えたからだ。
顔つきが似ていたわけではない。年齢も、性格も、話し方も、母とはまったく違うし、お酒の飲み方だって違っている。だが、そのときユーコさんが発していた波動のようなものに、僕の体は強烈に反応していた。縛められた体は心までをもたやすく縛りつけるものだ。瞬きするごとに母の顔が重なっていくかのようで、僕はユーコさんの顔から目を逸らせなくなっていた。
ユーコさんも、僕の目になにかを見つけたらしい。彼女は一瞬だけ哀しげに口端を歪めてから、床に膝をついて僕を抱き寄せた。突然のことに呼吸が止まるほど驚いたが、僕は振り払うことも、理由を尋ねることもできなかった。小さな女の子がぬいぐるみを抱くような、怖いくらいの切実さが彼女の両腕に込められていたからだ。
どぉん、どぉん、と花火が鳴っている。
心臓みたいだ、と僕は思い出す。
しんぞうのおとって、ばくだんみたいなんだよ。
いつだったか、母にそう話したことがある。夕方の、保育園からの帰り道、雲の峰を縁どる西日に優しく照らされながら、母と手を繋いで歩いていた。民家の庭木が葉を赤くしていたから、季節は秋だったように思う。
その日、保育園で追いかけっこをしたとき、僕は心臓が普段と違う鳴り方をしていることを発見した。いつもは左胸に手を当てなければわからないくらい静かなのに、走ったあとは爆弾みたいに騒がしかった。心臓があんな鳴り方をするなんて、大発見だ。僕がそう力説すればするほど、母はおかしそうに笑っていた。神話のように遠い昔の情景だった。
ユーコさんは無言で僕を抱きしめたまま、しばらく動かなかった。一分か二分ほどそうしていたと思う。その間に、僕の体をこわばらせていた氷柱のようなものはすっかり溶け、あとは水たまりが追憶を映して穏やかにさざ波を立てるだけだった。
やがて慎重な手つきで僕を離すと、ユーコさんは誰かにスイッチを入れられたみたいに、すばやく立ち上がった。
「忘れてた。ごはん作らなきゃ」
そう呟くなり、彼女は台所に飛び込んで照明をつけた。棚から引っ張りだした鍋に勢いよく水を張り、冷蔵庫の中身を忙しなく確認する。わざとらしい慌てぶりだったけれど、こちらへ振り返ったときにはもう自然な笑顔に戻っていた。
「パスタでもいい? なにか食べたいものある?」
「パスタでいいよ」僕も、今度は自然に答えられた。「それじゃ、ぼく、お風呂そうじするね」
「ありがとう。お願いね」
微笑み合うと、すっかりなにごともなかったかのような雰囲気だった。無言の抱擁も、不穏な電話も、すでにこの安全な明るさの下に埋もれている。疑問は風化を始め、不安はほどかれたリボンみたいに跡形もなかった。
それでも僕は、スポンジで浴槽をこする間、またしても追想に耽ってしまうのを抑えられなかった。一度蘇った記憶は潤滑油のような滑らかさで、いとも簡単に僕を過去の情景へと導いていく。
僕たちの体には爆弾が埋め込まれている。
それがずっと、爆発を繰り返している。
耳を塞いで目を閉じると、それがわかるのだ。
ねぇ、おかあさん。
しんぞうのおとって、ばくだんみたいなんだよ。
おかしいよね。
次にそう話したとき、母はもう笑わなかった。あのときみたいに笑ってほしかったのに、ぼろぼろになって横たわる僕の脇腹を、母は無言で蹴りつけただけだった。
◇
家で自炊をするたびに、ユーコさんが料理の腕前を自慢していたことを思い出す。
当時、彼女はある会社の事務経理の職に就いていたのだが、本当はイタリアン専門の料理人になりたかったらしい。高校生の頃はずっと厨房のアルバイトをしていたという。そのため、彼女が作る料理はことごとく洋食風で、僕が迂闊に「スパゲティ」と言うとすかさず「パスタ」と言い直させた。変なところにこだわる人だったのだ。自慢するだけあって料理はどれもおいしく、引き取られたときに骨と皮だけのような体だった僕は、ユーコさんのおかげで平均値に近い体重まで肥ることができた。
「どうしてコックさんにならなかったの?」
一度、そう訊いてみたことがある。ユーコさんの許にやってきてまだ日が浅かった頃だ。どうも彼女は自分の仕事が気に入っていない様子で、食卓に着くたびに、僕はさんざん愚痴を聞かされていたのである。
「料理学校ってお金かかるから」ユーコさんは物憂い笑みで溜息をついた。「お金、お金、お金……、なにをするにもお金がいるの。ほんと、嫌になっちゃうよね。貧乏人には夢を追う権利もないんだから」
彼女の言い分が、僕にはよく理解できなかった。
経済事情についてはもちろんだが、夢という言葉そのものが、僕には雲を掴むように取り留めのない印象だった。その証拠に「ハルくんは大人になったら何になりたい?」とユーコさんに訊ねられても、僕は口ごもるばかりで上手く答えられなかった。あれをやりたい、これをしてみたい、とは思っても、何かになりたい、と考えたことがなかったのだ。
母はどうだったのだろう、と近頃よく考える。
あの頃、母は近所にあった漬物工場でパート勤めをしていた。僕の父親がいなくなってから働き始めた職場だ。僕には工場で働いた経験がないが、あまり愉快な職場ではないということくらいは想像できる。夫に逃げられ、ろくに労働経験もない世間知らずの女がそこでどういう扱いを受けるかも、だいたい想像がつく。
母が崩れ始めたのは、その頃からだったように思う。
だんだんとお酒の量が増え、僕を見る目に険しいものが宿るようになった。すぐに声を荒げるようになり、理不尽な理由で僕を叱りつけることが多くなった。食事はスーパーの総菜品が増え、やがてコンビニの弁当を出されるのが当たり前になった。座卓には空き缶と灰皿の吸殻ばかりが溜まって、母が帰ってくる前にそれを片付けておくのが、いつしか僕の仕事になっていた。
母は何になりたかったのだろう?
料理人、教師、スポーツ選手、警察官。
大工、画家、音楽家、作家、俳優……。
何にせよ、それが母親でなかったのは間違いない。少なくとも、母が思い描いていた理想図が、工場勤めのシングルマザーでなかったことだけはたしかだ。
母を取り巻くもののことごとくが、母の望んだものではなくなっていた。むしろ、その反対のものばかりが彼女に押しつけられていた。最初は気に入るものだってあったかもしれない。しかし、そのほとんどが時間とともに奪われ、ろくでもないものばかりを押しつけられるようになったのだ。
いったい、誰に?
誰が押しつけた?
母はそれを知っていた。
母が僕を殴るようになったのは、工場の仕事を辞めて間もなくのことだった。
◇
ミートソースのスパゲティが座卓に並んだときも、花火はまだ鳴っていた。単調な破裂音の間を縫うように、だだだだ、と毛色の違う炸裂音が連続する。「マシンガンみたいだね」とユーコさんが呟いたので、僕は思わず笑ってしまった。だって、それじゃ本当に戦場みたいじゃないか。
「学校でお友達はできた?」彼女が首を傾けるような仕草で訊く。
「ううん、あんまりできてない。一人か二人だけ」
本当はゼロ人だったのだが、心配させたくなかったので僕は嘘を続けることにした。これくらいの嘘はもう朝飯前に口にできる僕だった。
「まだ転校したばかりだからね。一人か二人でもたいしたもんだよ」ユーコさんは微笑む。「好きな女の子はできた?」
「ううん、いない」これは本音だ。好きもなにも、まだクラスメイトの顔もよく把握できていない。いま思い出してみても、あの頃の同級生のほとんどの顔に薄いもやがかかっている。
「可愛い子とか、綺麗な子とか、クラスにいないの?」
「さぁ、わかんない」
「あ、そう……、まぁ、まだ九歳だもんね。女の人のことはわかんないか」
「ユーコさんのことはきれいだと思うよ」
「あら、ありがとう。ハルくんは可愛い男の子だと思うよ」彼女は上機嫌にやり返し、発泡酒をグラスに注いだ。「世界中の男の子がみんなハルくんみたいに可愛かったらいいのにね」
それはいやだな、と僕は思った。
再び花火が連続で鳴った。部屋の壁が音をくぐもらせ、室内の空気を波打たせているような感じがした。
「ハルくんの学校の子は、みんな花火大会に行ったかなぁ」
「さぁ……」
「やっぱり行っておけばよかったかな。学校で話題ができるし」そこまで言ってから、彼女は「そうだ」と閃いた顔になった。「ハルくん、もうすぐ夏休みでしょ? ふたりでテーマパークでも行ってみようか。ほら、いまテレビでやってる、あの変な形のモニュメントがあるとこ。どう?」
「うん、いきたい」あまり興味はそそられなかったが、僕は頷いた。
「めちゃくちゃ楽しいよ、きっと。わたし、デジカメ持ってくよ。ハルくんのこといっぱい撮ってあげる」
二回目の電話が鳴ったのは、そうして僕たちが笑い合っているときだった。
座卓の上で携帯電話が振動すると、ユーコさんの笑顔はあっけなく消失した。陽気なメロディ(『エレクトリカル・パレード』だったと思う)とは似つかわしくない、張り詰めた沈黙が落ちる。フォークを持つ彼女の手がぴくりと動いたが、電話を取ろうとはしなかった。
たちまち僕は心細くなった。見えない誰かが部屋の中にいるような、薄気味悪さに似た心地がした。
「電話、なってるけど」
「わかってる」彼女は吐き捨てるように言う。
電話はしつこく鳴り続けたあとで、唐突に途絶えた。空白を埋めるようにしてまた花火の音が戻ってくる。低い轟音が、前よりもずっと輪郭を増して聞こえた。
僕たちが息を詰めているところへ、再び着信のメロディが流れた。サイレンのようにけたたましかった。しかし、僕たちを本当に凍りつかせたのは、着信とほぼ同時に鳴らされた玄関の呼鈴である。腹のなかの臓器がいっせいに揺れるのを僕は感じた。
「ユーコちゃーん」と男の声がした。がちゃがちゃと取っ手を回す音。「いるんでしょー? 開けてよー」
インパラのようにユーコさんが駆けだした。僕もあとを追って玄関を覗くと、彼女が扉に縋りつき、わななく手でチェーンを掛けているのが見えた。
「あ、ひっでぇ」男が言った。「いま、チェーンかけたっしょ」
「帰って」と彼女は硬い声で返す。
「なんだよ、つれなくすんなよ」
「帰ってよ、はやく」
「あのさ、電話くらい出ろよな。お前が電話出ないから、俺、わざわざここまで来ちゃったじゃねぇか」
「だから、無理って言ったじゃん」
「そんなにいっぱいはいらないからさぁ、またお金工面してよ」男は笑っているらしかった。「俺、いまマジでピンチなんだって。今度はちゃんと返すからさ。な? とりあえず出てきて話そうよ」
「帰れ!」ユーコさんが吠えた。後ろにいる僕まで肩を跳ねてしまうほどの迫力だった。「帰らねぇと、マジで警察呼ぶからな!」
男が黙りこむと、聞こえてくるのはユーコさんの荒い息遣いだけになった。花火も相変わらず鳴っていたのだろうが、こんな状況でそんなものに耳を傾けていられる人間なんていやしない。
ユーコさん、と僕が呼びかけようとしたそのとき、扉が強く叩かれた。いや、蹴りつけられたのだ。ノックなどという生易しいものではない。本気で扉を打ち破ろうとするような、凄まじい振動だった。
ユーコさんがびくっと後ずさる。
彼女が怯んだのを見透かしたように男が言った。
「あんまり調子に乗るなよ、てめぇ」それまでの猫なで声とは打って変わった、恐ろしく低い声だった。「十秒以内に開けろ。またお仕置きされたいのかよ。早く開けねぇと爪切りの刑だぞ」
ユーコさんは声も出ないようだった。よろよろと扉から離れ、自分の体を抱くようにしてへたりこんでしまう。駆け寄りたかったけれど、僕も脚が根を張ってしまっていて、居間の戸口で突っ立っているしかなかった。
「聞いてんのか」扉が再び蹴りつけられた。「さっさと開けろ、こら」
「帰ってよ」ユーコさんは喉を震わせて絞りだす。「じゃないと警察に……」
「呼んでみろよ」男がせせら笑う。「お前も困るだろ。会社の金、ちょろまかしてたなんて知れたら」
「あれは」とユーコさんがどもる。「あれは、あんたに言われて……」
「いーち」
男が数え始めると、彼女は弾かれたように腰を浮かせた。
「ねぇ、待ってよ。わたし、もうお金ないの」
「にーい」
「ほんとなの。貸してあげたいけど……」
「さーん」
「やめてよ! お願いだからやめて!」
「よーん」男はのんびりと数え続ける。
とうとうユーコさんが泣きだした。ブラウスに包まれた背中が戦意を喪失し、慈悲を乞うように丸まっていく。でも、いくら涙を流しても暴力が止んでくれないことは、彼女にもわかっているはずだった。そんな当たり前のルールは僕だって知っている。叫べば叫ぶほど、暴力はむしろ苛烈さを増して僕たちに襲いかかってくるのだ。
まるで戦場だ。
僕は呆然としながら、頭の片隅でそんなことを考えた。目の前で繰り広げられている光景が現実味を欠き、暗い海底の亀裂にまで僕を引きずりこんでいく。それは哀しいとか苦しいとかいう言葉で括れないほどの、凄惨で圧倒的な破壊だ。本物の戦場も、ひょっとしたらそんな場所なのかもしれない。映画と違って音楽も流れず、声も通らず、爆轟と空虚な悲鳴だけが折り重なって、その場にいる者たちの感覚をすべて麻痺させてしまうのだ。
「ごーお」男の声からのんびりとした調子が消えた。「ろーく」
身じろぎした僕の気配に気づいて、ユーコさんが振り返った。濡れた瞳のなかで、光がガラスの破片みたいに拡散していた。僕もその瞳を見つめ返す。言葉はなかった。そんな呑気なものがいまさら出てこられる幕ではなかった。
凍りついていたユーコさんの顔に、ある種のやましさを含んだ影が横切った。蒼褪めた頬にかすかな朱色が差したのは、それとほぼ同時のことだった。
「しーち」
「子供がいるの」僕を見つめたまま、呟くようにユーコさんが言った。
「あ?」カウントが止まった。「なに?」
「わたしの子……、子供がいるの」
男はあっけにとられたらしい。
もちろん、僕も戸惑っていた。こんなときになぜそんなことを口にするのか、意図がまったくわからなかった。疑問符を浮かべていないのは当人だけであり、彼女はもう扉のほうに向き直っていて、僕の位置からは表情が見えなかった。
案の定、男が扉の向こうで噴きだした。
「い、意味わかんねぇ。なに言ってんの、お前」
「本当なの」ユーコさんは言った。「あんたと別れてから、甥っ子を預かったの。姉貴が蒸発しちゃって……、これから正式に養子にするつもり。だから、あんたに貸してあげるほどのお金は、もうないの」
「ふざけんなよ、お前」男の声から笑いが失せた。「頭ぶっ壊れたか? そんな見え透いた嘘、誰が……」
「おかあさん!」僕は咄嗟に叫んだ。「だれか、きてるの?」
ユーコさんがびっくりした顔でまた振り返る。目許がまだ濡れていたが、もう泣いてはおらず、微笑みを予感させる淡い光が宿っていた。
「お母さんのお友達。大丈夫だから、あっち行ってて」
そう言いながら、彼女は口の前へ人差し指を立てる。その仕草の示す意味が、今度は僕にも電流のように理解できた。
「どんな人なの?」僕は彼女へ一歩近づく。「ぼくのしってる人?」
「ううん、ハルくんの知らない人だよ」
「ぼく、あってみたい」
「だめ、もう帰るところなんだから」
「あわせて。あいたい」
「だめって言ってるでしょ。忙しいからもう帰るの。あっち行ってなさい」
「あいたい、あいたい!」
久しぶりに大声を出したせいで膝が震えた。団地に住んでいたときは、そんなふうに騒いだらすぐに蹴り飛ばされたものだ。
男がうろたえているのは、扉越しにでもわかった。こけおどしだとたかをくくっていたのに、本当に子供がいたものだから、彼の脳裏で通報されるリスクが現実味を増したのだろう。子供を預かっている女を恫喝したとなれば、きっと痴話喧嘩の処置だけでは済まされないはずだ。
黙りこくった男に対し、ユーコさんは攻勢に出るような真似は一切しなかった。扉の向こうの男をひたすら黙殺し、「静かにして」と迫真の演技で僕を宥めるだけだった。いま振り返ってみても、それは快哉をあげたくなるほど的確で賢明な判断だった。相手に逃げ道を用意したのだ。逆上させて居直られては、さらに厄介な事態へ発展したに違いない。
僕たちが無我夢中で親子ごっこを繰り広げている間に、男は立ち去ったらしい。五分ほど経ったあと、ユーコさんがおそるおそる覗き窓を覗いて、ほっとしたようにうずくまった。腰が抜けたのだろう。僕はといえば、まだ膝をがくがくさせて息を詰めていた。血管が膨らみ、関節のネジがいくつか飛んでしまった気がした。
「ユーコさん、だいじょうぶ?」
やっとのことで呼びかけると、ユーコさんはしがみつくようにしてまた僕を抱き寄せた。彼女の額が僕の肩に押しつけられ、そこに浮かんでいた汗が僕のシャツを冷たく湿らせる。先ほどよりもずっと力強い抱擁で、やはり言葉はない。僕もなにも言わなかった。僕も誰かにしがみつきたい気分だったからだ。
そのまま、二人ともしばらくじっとしていた。上空を飛ぶ爆撃機をやり過ごすかのように、息を殺して身を潜めていた。
いつの間にか、花火の音が耳に戻ってきている。僕たちが生まれる何千年も前からそれは続いているように思えた。この先もずっと、世界が終わるまで、花火は打ち上がり続けるのかもしれない。
「人間ってさ、不思議だよね」ユーコさんが声をくぐもらせて言った。「自分ひとりだと弱っちいくせに、誰かと一緒にいると少しだけ強くなれるみたい」
母の顔が一瞬だけ目をよぎった。
「ユーコさんはつよいと思うよ」
半分は慰めで、もう半分は本音だった。この戦場みたいな世界で、そのときの僕がしがみつけるのは、ユーコさん以外にいなかった。
「強いのはハルくんだよ。わたしのこと、助けてくれたんでしょ?」彼女は上気した顔を離して微笑みかける。「ありがとね、ハルくん。カッコよかったよ」
急に体がこそばゆくなり、僕は身をよじった。たぶん、照れ臭かったのだろう。でも、そのときは恥ずかしいという感覚も久しぶりすぎて、熱を持った自分の頬を不思議な気持ちで感じていた。
◇
食卓に戻っても、もう夕食を続けられそうになかった。僕は興奮の余韻ですっかり喉が詰まっていたし、ユーコさんも食欲を失くした様子だった。結局、スパゲティはラップに包まれて冷蔵庫行きになり、僕たちはそれぞれ着替えを抱えて浴室に向かうことになった。
膝を抱えて浴槽に浸かったときも、僕はまだ悪漢を撃退した誇らしさで内心浮かれていた。とにかく久しぶりに気分が良かった。僕の場合、身も心も軽くなるなんて、とても稀なことだ。どんなに嬉しい出来事があっても、船の錨のような重みがいつも胸の底に沈んでいて、追い風も向かい風も関係なく気持ちを鈍くしてしまう。じつをいうといまでもそうなのだが、屈託なく笑うことが、僕にはとても難しい。だから、無防備に緩んでしまう自分の口端の軽さが少し新鮮なくらいだった。
そんな僕と膝を触れ合わせているユーコさんは、しかし、あまり晴れやかとは言えない顔つきだった。入浴中の彼女はいつもきまって辛そうな顔をする。自分の体にある過去の印と、嫌でも向き合わなければならないからだろう。そんなユーコさんを見て、僕もだんだんと気持ちが沈んでくるのを感じた。
「だいじょうぶだよ、ユーコさん」僕は明るい声を作った。「あいつ、もうこないよ、きっと」
「そうだね」彼女は静かに微笑み、僕に顔を近づける。「ねぇ、さっき、怖かった?」
「こわかったよ。ひざがぶるぶるしちゃった」
「えらいなぁ、ハルくんは。正直で」
そう言うと、ユーコさんは顎の先まで迫った水面へ視線を落とす。お湯の下では僕たちの裸が揺らめいている。どちらも傷だらけだった。
「あいつがやったの?」僕は訊ねた。それだけでちゃんと伝わった。
「まぁね」彼女はふっと息を漏らす。「もうね、ほんと最悪なんだよ、あいつ。超ドSでさ……、優しかったのは最初だけ。なんでわたし、あんな奴と付き合ってたのかなぁ」
「つめ切りのけいってなに?」
あの男が言っていたことだ。
「あいつの必殺技。ほら、爪を切るときに使うハサミがあるでしょ。あれをさ、こう、おっぱいの横に当てて、皮膚を挟んでね」彼女は体をねじり、おどけるような仕草で指し示す。胸の脇には一センチほどの傷があった。「それで、ばちん! だよ。信じられる?」
僕は思わず顔をしかめた。
「いたかった?」
「めちゃくちゃ痛かったよぉ。うぎゃあああって、人生で初めて悲鳴あげたもん。傷はちっこいけどさ、血とかめっちゃ出たし……、ほかにもサッカーボールの刑とか灰皿の刑とかあってさ、骨折も火傷もしょっちゅうだった。顔にだけは手ぇ出されなかったけどね。萎えちゃうからなのか知んないけど」
萎える、の意味はわからなかったが、僕はとりあえず頷いておいた。
どうやらあの男は母とは違うらしい。母は顔でも体でもお構いなしに僕を殴りつけた。痣が学校で人目を引くとわかっていてもやめなかった。心配した担任が自宅へやってきても、僕の顔の腫れを引かせるために冷水を溜めた水槽へ頭を突っ込まれる習慣が加わっただけだった。
そうだ、水槽……。
あの水槽で飼っていた金魚は、母が殺したらしい。花火大会の屋台で掬ったもので、意外なほど長生きしたペットだった。名前をつけたはずだが、もう思い出せない。赤い尾びれの綺麗な模様だけが目の奥に残っている。
「ハルくん?」
呼ばれてはっとすると、目の前にユーコさんの顔があった。心配そうに眉を寄せている。
「のぼせちゃった?」
「ううん」慌てて首を振る。「考えごとをしてたの」
「なにを考えていたの?」
「金魚のこと。むかし、かってたから」
「へぇ、金魚飼ってたんだ。可愛かった?」
「あんまりおぼえてない」
「なんじゃそりゃ」彼女は噴きだす。「変なの」
「ユーコさんは、ペット、かったことある?」
「ないね。昔、猫を飼いたかったけど、わがまま言えるような立場じゃなかったから」彼女の笑みに暗く張り詰めたものが差した。「前にも話したかもしれないけれど、わたしね、連れ子だったの。だから、ハルくんのお母さんとも本当は姉妹じゃなくて、義理の姉妹というかさ……、母親が死んでからはますます家の中で肩身が狭くなっちゃってね」
僕は口をつぐむ。
ユーコさんも、あまりその話を続けたくなさそうだった。
彼女と僕の母が血の繋がった姉妹でないことは、何度か聞かされていた。僕の祖父にあたる人がユーコさんの母親と再婚して、二人は姉妹となったのである。
経緯としてはもちろん知っていたけれど、それが実際的にどういうことなのか、ユーコさんがどんな思いで少女時代を過ごしていたのか、子供の僕にはしっかりと想像できなかった。知りたくなかった、というほうが正確かもしれない。いまのこのユーコさんとの特別な生活が――、そう、それはまさしく僕の人生において特別と呼ぶべき幸福な生活だった――、根底から揺らいでしまう気がしたからだ。僕とユーコさんには別々の血が流れている。その事実がある限り、いつか意地悪な誰かが僕たちの仲を引き裂きにくるのではないか、と漠然と予感していたのである。
ふと、視線がユーコさんの手首に向いた。
横にまっすぐ引かれた細い切傷。初めて目にしたときから、その傷が僕の目を強く惹いてやまない。爪切りで挟まれた胸の傷よりも、古い痣や煙草を押しつけられた痕よりも、なぜかそれがもっとも痛ましく感じられる。
ユーコさんも気づいて、「あぁ」と自分の手首に触れた。
「これはね、自分でやったの」
「え?」僕は聞き返した。「どうして?」
「さぁ……、どうしてかな」彼女は場違いなあくびをしてから、眠たげにまぶたを閉じる。「そのときね、たまたまカッターナイフ持っててさ、気づいたら自分で切ってたの。変だよね。痛いの、嫌いなはずなのにね。よっぽど死にたかったんだろうね」
嘘を言っている、と僕は思った。
こんな小さな傷で人が死ぬはずないじゃないか。殴られても、爪切りで挟まれても、人は死なない。それっぽっちのことでは死ねないのだ。しかし、ユーコさんが嘘をつく理由がわからなかったので、僕は口を挿まずに耳を傾けた。
「まぁ、わたしは失敗しちゃったけどさ、それでもなんか、自殺しちゃう人の気持ちが、少しわかった気がする」彼女はぽつぽつと続ける。「ああいう人たちってさ、たぶん、誰かを憎んだり、環境を恨んで死んじゃうわけじゃないんだよね。そういう理由で自殺しちゃう人もいるにはいるんだろうけど……、でも、なんていうのかな……、自殺する人たちはさ、自分自身に失望しちゃってるから死ねるんだとわたしは思う。自分がいま苦しんでいる環境から抜け出せたとしても、嫌いな相手から逃げ切れたとしても、またいつか、絶対に同じ目に遭うってわかってるから、さくっと、ためらいなく死ねるんだよ。もういっそ終わらせちゃおうって思っちゃうの。自分の馬鹿さ加減を誰よりも知ってるのは、自分以外にいないからね」
ユーコさんは首を反らし、浴槽のへりにぐったりと頭を預ける。
「わたしね、そっちのほうが普通なんじゃないかなって、ときどき思うんだ。死ぬことをまったく考えない能天気なやつより、一回くらい自殺未遂やらかしたやつのほうが、本当は人間としてよっぽどまともなんじゃないかなって……、ハルくんはこういうの、わかる?」
体はもうすっかり温まって、首筋が熱さで脈打つほどだった。本当にのぼせたのかもしれない。瞑目するユーコさんも林檎みたいに真っ赤だった。
「ぼくは」いつもみたいには頷けなかった。それがとてつもなく大事な意味を持つように思えたからだ。「ぼくには、わかんないよ」
「うん、わかんないよね」彼女は溜息のように言った。「でもさ、わたしからしたら、こんなろくでもない世の中で、平気な顔して生きていられる人のほうがずっと不思議なの。なんでみんな、そこまで自分を無邪気に信じられるのかがわからない。ほとんどの人が夢も叶えられないのにさ。ほんと、馬鹿みたいだよね、どいつもこいつも……、死ぬことよりもつらいことなんて山ほどあるのに、馬鹿みたいに生きようとしてるんだ」
僕はますます困惑して、それから無性に胸騒ぎを覚えた。まるで最後の安全地帯にまで敵に踏み込まれてしまったような、いてもたってもいられないような不安がこみ上げた。
「でも」唾を呑むと頭がくらくらした。「死んじゃうのは、やっぱりだめだとおもう」
「どうして?」
彼女は目を閉じたまま、僕を見ない。
「だって、死んじゃったらきっといたいし。ユーコさん、いたいのきらいっていったじゃん」僕は必死に言葉を探して、手当たり次第に投げつけた。「それに、死んじゃったらぜんぶおわっちゃうんだよ。ごはんたべたり、お風呂にはいったり、そういうことがぜんぶ……」
「生きていたら、なにが始まるっていうの?」
そんな問いかけに、九歳の子供が答えられるはずがなかった。
たまらず水面下にある手に触れると、ユーコさんはようやくまぶたを開けて僕を見た。憂いを含んだ瞳にふんわりと微笑みを浮かべ、そして湯気のこもる天井の辺りへ億劫そうに視線を漂わせた。
「花火、もう終わっちゃったかな」
僕も耳を澄ます。垂れ落ちるしずくの不規則なリズム以外には、もうなにも聞こえない。花火はお開きになったようだ。しかし、ようやくやってきた静寂は、その夜においてはなによりも不吉な音色だった。
◇
歯を磨いてから、退屈なテレビ番組を眺めているうち、僕はとても眠くなってしまった。時計を見るとまだ九時を少し回ったところで、いつもより睡魔の訪れが二時間も早い。夕食時の騒動がよほど僕を疲れさせたらしい。せっかくの日曜の夜なのに、少しもったいない気がした。
湯上がりのユーコさんはかえって目が冴えた様子で、ブラウスにせっせとアイロンをかけている。さきほど浴室で垣間見せたあの不穏な雰囲気は綺麗さっぱりなくなっていて、地面にしっかりと足をつけた人の印象があった。ひょっとしたら、僕はそれに安心して眠気に釣り込まれたのかもしれない。
アイロン掛けが終わってからも、ユーコさんは爪を磨いたり顔にクリームを塗ったりと忙しくしていたが、舟を漕ぎだした僕に気づくと、すぐさま座卓を片づけて二人分の布団を敷いてくれた。
「ぼくだけねるから、ユーコさんはおきてていいよ」
「いいの。明日も仕事だし、早寝しなきゃ」彼女は笑って言った。
カーテンが閉められ、電灯も消されると、部屋は宇宙のように真っ暗になった。光源はクーラーのランプと、充電中の携帯電話の赤い光、それからノートパソコンの電源のみ。目を細めると、それらが星のように小さく瞬いて見える。
ユーコさんが「おやすみ」と告げて隣の布団にもぐった。僕も「おやすみなさい」と返したつもりだったが、声の半分はすでに寝息だった気がする。枕に頭を深く沈めると、体があっという間にまどろみに痺れ、意識は連想のパノラマへと落ちていった。
そして、僕はいつものように母の夢を見た。
夢は水槽へ顔を突っ込まれるシーンから始まった。風呂場で思い出したせいかもしれない。うなじを掴む握力まで記憶の通りだ。しかし、水槽に張られているのは氷を詰めた冷水ではなく、生臭い常温の水だった。
水草の隙間に、赤い尾びれの残骸が漂っている。金魚はどこにいったのだろう? もうとっくに殺されたんだっけ? 口から漏れた気泡が、腫れた頬を掠めて昇っていった。
「お前が教師に告げ口したせいだぞ」母の声がした。「お前の顔を治さなきゃいけないから、金魚を殺さなきゃならなくなったんだ。謝れよ」
水から引き上げられ、僕は必死に空気を吸い込む。次に吐きだした息には、漫画の吹き出しみたいにたくさんの「ごめんなさい」が詰まっていた。
「可哀想なことしやがって」母が舌打ちする。「お前のせいだぞ」
お前のせい。
それが母の口癖だった。
僕のせいで父親だったあの人が出て行き、母は大嫌いな仕事をせざるを得なくなった。僕のせいで母にはなかなか恋人ができず、お節介な教師がやってきて、大切にしていた金魚を殺すはめになった。
僕のせいで……。
その通りかもしれない。
僕がここにいるせいで、僕はこんなに苦しい目に遭っている。
僕が生まれてしまったせいで、このどうしようもない痛みが続いていく。
床へ引き倒された拍子に、カーペットを濡らしてしまった。母の服も水をかぶったに違いない。蹴られると思って体をこわばらせたけれど、母は僕の胸を踏みつけて、じっと睨み下ろすだけだった。
おかあさん。
噎せながら僕は呼ぶ。
おかあさん、おもいよ。
ぼく、つぶれちゃうよ。
母はおかしそうに笑っている。
優しく、愛しく。
夕日に照らされながら。
火薬の匂いがする。
金魚の名前は、そうだ、スイタ。
スイスイ泳ぐから。
赤い尾びれの綺麗なこと。
可哀想に……。
手首の傷。
お揃いの痣。
爪切りの刑。
食パンはかびていて、舌が痺れる。
破裂音がした。
あれは花火か、爆弾か。
それとも、扉を蹴りつける音?
ここは戦場?
ここは安全?
スパゲティじゃなくて、パスタ。
料理学校はお金がかかるんだ。
誰かと一緒だと少しだけ強くなれる。
そう言ったのは、誰だったか……。
おかあさん!
あいたい、あいたい!
でも、その前に顔を治さなくちゃ。
先生がまた来ちゃうもんね。
ふと気づくと、ユーコさんがぐったりしている。
真っ赤な顔で、浴槽のお湯も血の色。
手を握っても、もう起きない。
遠くに行ってしまった。
あんな小さな傷で。
僕だけ置いて。
叫ぼうとしたのに、喉の奥で声が散り散りになる。
浴槽の底が抜け、体が暗い虚空へと投げ出された。
そこで目が覚めた。
飛び起きたつもりだったが、実際には全身を震わせて目を開けただけだった。前髪が濡れて張りつき、胸にも汗の感触がある。クーラーのタイマーが切れたのかもしれない。目が慣れたせいで、天井は薄闇に変わっていた。視線を巡らせると、充電済みの携帯電話が午前一時を示しているのが見える。
隣の布団には誰もいない。
ぎくりとしたが、すぐに彼女の姿を見つけたので、僕はゆっくりと身を起こした。
ユーコさんはカーテンを半分開けた窓辺に腰かけ、ぼんやりと外を見つめていた。月が明るいらしく、淡い光にあてられた横顔にくっきりと陰翳が生まれている。ぶらつかせた右手がカッターナイフを力なく握っていて、僕は最初、夢の続きを見ているのかと思った。
「ユーコさん」
よかった、ちゃんと声が出て……。
それで、やっと僕の目に涙が滲んだ。
気を抜いていたのか、ユーコさんは肩を跳ねあげると、びっくりした顔で振り向いた。
「起きたの? あ、起こしちゃった?」
「なにしてるの?」僕は急いで目を拭う。
「なにも」彼女は微笑む。「眠れなくて、考えごとしてただけ」
「どうして、カッターもってるの?」
ユーコさんは微笑んだまま、目を伏せた。
あのとき彼女がなにをしようとしていたのか、いまではもう確かめようがない。死のうとしていたわけではないと思う。月明かりに染まった横顔に、死の気配なんて微塵も見当たらなかった。もっとも、活力に溢れているとは言い難い雰囲気だったけれど……。
沈黙をたっぷり挿んだあと、ユーコさんはカッターナイフを床に放り、「おいで」と両腕を差し伸ばした。僕がおずおずと近づくと、彼女は花束を受け取るようにして僕を抱きしめた。深く息を吸いこむのが耳元で聞こえる。僕たちを取り巻く空気が、それで少しだけ優しくなったみたいだった。
「すごい汗だね……、暑い?」
「ううん」僕は首を振る。「こわいゆめ、みたから」
「お母さんの夢?」
「うん」
「お母さんのこと、きらい?」
「きらい」
「そう」彼女の指が、僕の濡れた髪を梳く。「正直でえらいね、ハルくんは」
目に溜まった涙がこぼれてしまいそうで、僕は頷けなかった。
正直なんかじゃない、となぜ言えなかったのだろう。
僕は母を嫌ってなどいない。怖いだけで、痛いだけで、嫌いなわけではまったくないのだ。戻ってきてくれるのなら、また一緒に暮らしたかった。それが叶わなくても、せめてもう一度だけでも会いたかった。それが僕の本音。だから、施設で職員たちに質問されたときにも、僕は嘘をつき通したのだ。怪我をしたのは転んだ拍子に脚をぶつけたからで、母が僕に手を上げることはけしてなかった、と……。
おかあさんといっしょにくらしたい。
でも、それを口にすれば、ユーコさんを傷つけてしまうことがわかっていたので、僕は嘘をつくしかなかったのだ。
おかあさん、と玄関で叫んだことを思い出す。
あのとき、僕は誰を必死に呼んでいたのだろう?
どうして、僕はこんなふうなのだろう?
どうして、なりたい自分でいられないのだろう?
僕がいるせいで、またなにかが歪んでいく。
顔を少しずらすと、ユーコさんの手首が見えた。そこに走る白い傷痕が、月明かりのなかで誘いかけるような銀色に見えた。
「ねぇ、ユーコさん」
「なに?」彼女は顔を離して僕を見る。
「こんど、くるしくなったら、ぼくの手首をきって」
「え?」
「いつでも、ぼくをなぐっていいからね」
母がそうしていたように。
それくらいしか、僕は役に立てないのだから。
「しないよ、そんなこと」彼女の声が震える。「わたし、ハルくんには、絶対にそんなことしない」
「それなら、もう手首をきらないで」涙がこぼれるのを感じながら、僕は言った。「ぼく、ユーコさんに、いなくなってほしくないから」
ユーコさんの唇がなにかを言おうとしてわななく。それが形にならないうちに、僕はまた強く抱きしめられていた。
「好きよ、ハルくん」頬を重ねて彼女が囁く。「ハルくんが、わたしの子だったらよかったのに」
僕も彼女にしがみついた。
この人が、ぼくのおかあさんだったらよかったのに。
もしそうだったら、もっとずっと、いろんなものがまっすぐでいられたのに。
僕たちはお互いにしがみついたまま、布団に戻る。誰かと一緒の布団で眠るのは久しぶりだった。自分が遠い昔の神話みたいに平和な世界にいる気がして、眠りはすぐにやってきてくれた。
今度は母の夢を見なかった。かわりに花火の夢を見た。夜空に光はなく、どぉん、どぉん、と爆弾みたいな音だけが響いてくる。まるで戦場で、だけど、ここだけは安全なのだ。
耳のそばでユーコさんの心臓が鳴っている。胸のふくらみの奥で、爆発を繰り返している。
「ユーコさん」
それが夢のなかで呟いた言葉だったのか、現実のなかで口にした言葉なのかは、もう判然としない。確かめる術は、もはやない。
「しんぞうのおとって、ばくだんみたいなんだよ」
そうだね、と彼女が微笑んだ気がした。
おかしいね。
こんなふうでも、ぼくたち、ちゃんと生きていられるんだね。
額に触れた彼女の手が、初めて温度を持った気がした。そのかすかな温もりを足の爪先まで伝播させながら、僕はさらに深い眠りの階層までゆっくりと降りていった。
◇
それから約三か月後の秋の日に、僕たちの生活は終わりを告げた。
ふらりと現れた母が、下校途中だった僕をかっさらうように連れ帰ったからだ。その半月前に母は団地へと戻っていて、僕の居所をあちこち探し回っていたらしい。
ユーコさんはすぐに追いかけてきてくれたけれど、僕を連れ戻すことはとうとうかなわなかった。姉妹の間で交わされた叫喚じみた罵倒の応酬を思い出すと、僕はいまも胸が痛くなる。
母が現れるまで、僕とユーコさんは本当の親子のように暮らしていたと思う。いや、本当の親子より仲が良かったに違いない。彼女と食べたイタリアン料理の味も、一緒に遊びにいったテーマパークも、二人で観たアニメ映画も、僕の記憶にひとつひとつ精彩に刻まれている。しかし、一番印象に残っているものといえば、やはり互いにしがみついて眠ったあの夜をおいてほかにないのだ。ユーコさんと別れてからの僕は、かつて母との思い出を拠りどころにして生きていたように、あの夜のシーンを繰り返し反芻して今日まで生き延びたといっても過言ではない。
母に連れ去られたあとも、ユーコさんは全力を尽くして僕を取り戻そうとしてくれた。僕が虐待されていた事実を福祉局へ訴え続けていたし、訴訟の準備を進めていたとも聞いている。母の育児能力に問題があるのは言うまでもなかったので、まともに戦っていれば、彼女は望みどおり僕を取り戻せたはずだった。
裏切ったのは僕のほうだ。
僕のほうが、母と暮らすことを望んだのである。
なにを言っても言い訳にしかならないことは承知している。ただ、どうしてもわかってほしいのは、僕は、戻ってきた母を独りにしておくわけにいかなかったということだ。交際相手にあっけなく捨てられ、憔悴しきっていた母は、寄り添ってくれる誰かを心から必要としていた。連れ戻された日の夜にはさっそくぶん殴られていたけれど、それでも僕の気持ちは変わらなかった。どんな形でも母と一緒にいてやって、少しでも母と共に強くならなければならなかったのだ。
別れを告げたときのユーコさんの表情が、いまでも忘れられない。
彼女は僕をどう思っただろう?
いったい、どれほどの傷を負ったのか。
手首を切るよりも、爪切りで挟まれるよりも、それはずっと痛かったはずだ。
僕の選択は、本当に正しかったのだろうか?
◇
僕たちの生活が終焉を迎えた一年後、ユーコさんは勤め先のビルから飛び降りた。遺体には自傷とみられる生傷がいくつもあったという。現場に残された遺書にはかつて会社の資金の一部を着服したこと、それが当時の交際相手の指示であったことを告白する文章が長々と記されていた。
僕のことは、なにも書かれていなかった。
◇
ユーコさんの命日になると、僕はきまって彼女の位牌を抱いて眠る。その日だけは仕事を休み、友達も恋人も遠ざけて独りになる。
明かりを消した部屋には、もう花火の音が届くことはない。近くの国道から時折クラクションが響くだけ。夜が更けた世界は、まるでガラスケースに納められているみたいに静かだ。
それでも、目を閉じるとやがて聞こえてくる。
世界は相変わらず戦場みたいで。
ここだけは安全。
爆弾みたいな心臓が、ふたつ聞こえる。
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